伝記
イザベラ・オブ・ヴァロワは、イングランド王リチャード2世の2番目の王妃となり、のちにオルレアン公妃となった女性である。フランス名はイザベル・ド・ヴァロワ、あるいはイザベル・ド・フランスという。フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの次女で、三番目の子として、1389年にパリのルーヴル宮殿で生まれた。誕生日は11月9日とされてきたが、近年の記録の研究はこれと食い違うとされる。第1子の王太子シャルルは1386年に生後3か月で、長女ジャンヌは1390年に2歳になる前に死んでおり、イザベラは、王夫妻の子として初めて幼年期を生き延びた。のちのブルターニュ公妃ジャンヌ、ブルゴーニュ公妃ミシェル、イングランド王ヘンリー5世の妃カトリーヌ、フランス王シャルル7世らは、その妹弟である。イザボーは子らの身近にいて、旅に連れて歩き、贈り物や信心の本を買い与え、娘たちが教育を受けられるようにした。イザベラの結婚後も、手紙のやりとりを続けた。
1394年に最初の王妃アン・オブ・ボヘミアを亡くしたリチャード2世は、すぐに新しい妃を探し、イングランドの使節団がフランス王の宮廷を訪れた。フランス側は、イングランドとアラゴンの同盟が百年戦争を再燃させることを恐れた。1395年の半ばに結婚の交渉が始まると、28歳のリチャードは、5歳のイザベラとの結婚を望んだ。年の差については、日がたつごとに若さの問題は解消される、若いからこそ理想の妃に育てられる、自分はまだ後継ぎを待てるほど若いと、リチャードは述べたという。シャルル6世は1392年から繰り返し発作を起こしていたため、交渉は王の叔父が進めた。結婚には、王の弟や、リチャードの叔父グロスター公トマスなど、反対者もいた。1396年に交渉が成り、結婚契約では、イザベラがフランスの王位に対する権利を放棄すること、持参金が国の年間収入に等しいほどの巨額であることが定められた。リチャードが、イザベラが12歳になる前に死んだ場合には、持参金の残りは返還され、イザベラはすべての財産とともにフランスへ戻れることになっていた。この結婚は、フランスとイングランドの休戦を結ぶ条件でもあり、6歳のイザベラは、カレーで結婚式を挙げたのち、イングランドへ渡った。
年の差が大きかったにもかかわらず、イザベラは、1399年に廃位されるまでリチャードと良好な関係にあった。この年、夫の従弟ヘンリー・ボリングブルック(のちのヘンリー4世)がリチャード2世をロンドン塔に幽閉すると、イザベラも、ロンドンの北西のソニングに幽閉され、夫に会うことを禁じられた。ヘンリー4世は、彼女を自分の長男に嫁がせることを望んでいたという。夫が1400年に死んだことも、イザベラには知らされなかった。1401年にヘンリー4世から帰国を許されたが、未亡人が故国へ戻るときに返されるはずの持参金は、返還されなかった。フランスへ戻ったイザベラは、母のもとで暮らした。1406年に従弟のオルレアン公シャルル(のちのフランス王ルイ12世の父)と再婚し、1409年9月13日、唯一の子となる娘ジャンヌを産んだときにブロワで死亡した。ジャンヌはアランソン公ジャン2世と結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- マルティーノ1世 (シチリア王) (1409年没)
- ブランシュ・オブ・イングランド (1409年没)
- フランセスク・アシメニス (1409年)
同じ地域に関係する人物
- ジャンヌ・ド・ブロワ=シャティヨン (1291年没)
- トニー・デュヴェール (2008年没)
- ヴァランティーヌ・ヴィスコンティ (1408年没)
- マリー・アルフレッド・コルニュ (1902年没)
- セイントベナント (1886年没)