HISTORICAL PERSON · 1714年没

アン (イギリス女王)

最後のイングランド・スコットランド女王で、最初のグレートブリテン女王。ステュアート朝最後の君主で、ブランデー好きの異名を持つ。

生涯
1714年没
死亡地
イギリス連邦(ケンジントン・アンド・チェルシー区 / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(セント・ジェームズ宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンジントン・アンド・チェルシー区)

伝記

アンは、1665年2月6日に生まれ、1714年8月1日に亡くなったイングランドの女王である。最後のイングランド王国・スコットランド王国君主であり、1707年からは最初のグレートブリテン王国君主、およびアイルランド女王を務め、ステュアート朝最後の君主でもある。ブランデーを好んだことから「ブランデー・ナン」の異名で知られ、読書や芸術よりスポーツや乗馬を好んだという。ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)と、最初の妃アン・ハイドの次女として生まれ、姉にメアリー2世がいる。父の宮廷の女官で、後にマールバラ公夫人となるサラ・ジェニングスは、少女時代からの親しい友人であった。

1683年7月28日、デンマーク王フレデリク3世の次男ヨウエン(ジョージ)と結婚し、夫は1689年にカンバーランド公となった。夫婦仲はよく、毎年のように妊娠して合計17回に及んだが、6回の流産と6回の死産を経験した。1685年と1686年に生まれた二人の娘は2年足らずで天然痘で亡くなり、1689年に生まれたグロスター公ウィリアムも、生来の水頭症に加えて猩紅熱にかかり、11歳で亡くなった。結局、成人した子は一人もいなかった。

1688年の名誉革命では、姉の夫のオラニエ公ウィレム3世がイングランドに上陸すると、サラとともにロンドンを脱出して彼のもとに投降した。姉夫婦がメアリー2世とウィリアム3世として即位するが、二人に子がなかったため、早くから王位継承者の候補と目された。しかし1692年、マールバラ伯ジョン・チャーチルが旧主ジェームズ2世と秘密に通信した疑いでロンドン塔に投獄されると、伯の妻がサラだったためにアンは投獄に反対し、国王夫妻と仲違いした。以後メアリー2世とは絶交状態となり、宮廷から遠ざかったが、1694年にメアリーが死去するとウィリアム3世と和解した。

1702年にウィリアム3世が没すると、女王に即位した。夫ジョージは「女王の配偶者」および海軍総司令官の地位を与えられたが、統治者としては君臨しなかった。即位した頃、先王のもとで準備されていたスペイン継承戦争が本格化し、イングランドはオランダとともにオーストリアと同盟してフランスとスペインに対することになった。アンは友人の夫マールバラ伯を総司令官に任じ、その友人ゴドルフィンを大蔵卿として戦争を進めた。1704年、マールバラ公(叙爵後)は南ドイツのブレンハイムの戦いでフランス軍を破り、その恩賞としてオックスフォードシャーの領地と邸宅建築の資金を与えられた。1707年5月1日にはイングランドとスコットランドの合同法が成立し、アンは新たなグレートブリテン王国の最初の君主となった。

やがて女王は和平推進へ傾き、夫の代弁者として戦争の遂行を進言するサラを疎むようになった。サラの従妹アビゲイル・メイシャムを重用してトーリー党に近づき、1710年にサラを宮廷から追放した。同年の選挙でトーリー党が政権につき、マールバラ公は横領疑惑で失脚し、1713年にユトレヒト条約が結ばれた。イギリスは現在も領有するジブラルタルなどを得た。子を失った後は、後継者として、プロテスタントでステュアート家の血を引くハノーファー選帝侯妃ゾフィーが注目され、1701年に王位継承法が制定された。1714年8月1日に亡くなり、ステュアート朝は断絶した。ゾフィーも同年6月に亡くなっていたため、その長男が英国に迎えられ、ジョージ1世として即位した。

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