伝記
ロバート・ドーナットは、1905年3月18日にイギリスのマンチェスター郊外のウィシントンに生まれた舞台俳優、映画俳優である。プロイセン出身でドイツ系の土木技師エルンスト・エミール・ドーナットと、妻ローズ・アリス・グリーンの四男、末っ子として生まれ、マンチェスター中央男子文法学校で教育を受けた。ひどい吃音に悩み、これを克服するため、朗読術の名教師ジェームズ・バーナードのもとで発声の訓練を受けた。15歳で学校を離れ、バーナードの秘書として働いて、レッスンの費用をまかなったという。
1921年、16歳のとき、バーミンガムのプリンス・オブ・ウェールズ劇場で、「ジュリアス・シーザー」のルキウス役を演じて初舞台を踏んだ。1924年にシェイクスピア俳優フランク・ベンソン卿の一座に加わり、4年間をそこで過ごした。1928年からはリヴァプール・プレイハウスで1年間、ゴールズワージーやバーナード・ショーらの戯曲に主演した。1929年にはケンブリッジのフェスティバル劇場でタイロン・ガスリーの演出のもとで舞台に立ち、自らも演出を手がけた。同じ1929年にエラ・アンズリー・ヴォイジーと結婚し、2男1女をもうけたが、1946年に離婚している。1930年にロンドンへ移り、1931年に小説を劇化した作品でギデオン・サーン役を演じて注目された。この頃は、映画界のオーディションにたびたび落ちたため、業界では「スクリーン・テスト・ドーナット」と呼ばれていたという。
1932年に映画デビューを果たした。アレクサンダー・コルダの製作会社でのスクリーン・テストは散々な出来で、ドーナットが笑い出して終わったが、コルダはその笑いを聞いて、これほど自然な笑い声は聞いたことがないと言い、すぐに契約させたと伝えられる。翌1933年、チャールズ・ロートン主演の『ヘンリー八世の私生活』でトマス・カルペパーを演じて評判となった。1934年には『巌窟王』に主演した。これは彼が自ら渡米して撮影した唯一の映画で、成功を収めたため、ワーナーから『海賊ブラッド』など複数の出演依頼が来たが、アメリカを好まず、イギリスへ戻った。1935年にはアルフレッド・ヒッチコックの『三十九夜』に出演し、洗練された英国紳士役で人気を博した。ルネ・クレールの『幽霊西へ行く』やジャック・フェデーの『鎧なき騎士』にも出演している。1936年にはロンドンのクイーンズ劇場の経営も引き受けた。
1938年に『城砦』でアカデミー主演男優賞にノミネートされ、翌1939年に『チップス先生さようなら』で同賞を受賞した。クラーク・ゲーブル、ローレンス・オリヴィエ、ジェームズ・スチュワートといった強力な対抗馬を抑えての受賞であった。だが慢性的な喘息に悩まされ、その後は舞台を中心に活動したため、30年近いキャリアの映画出演は20本ほどにとどまった。主演が決まっていた『海賊ブラッド』はエロール・フリンが代役となり、『鎧なき騎士』の撮影は入院で2か月延期され、『ホブスンの婿選び』も体調悪化で降板した。伝記作家のデビッド・シップマンは、彼の喘息が心身症だった可能性を指摘している。1958年の『六番目の幸福』が遺作となり、6月9日にロンドンで53歳で亡くなった。脚本家の和田夏十は彼のファンで、自分のペンネームを彼の名からつけた。
同じ年に亡くなった人物
- ルドルフ・ロッカー (1958年没)
- ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵) (1958年没)
- ジョン・ピウス・ボーランド (1958年没)
- ナデジダ・ブルガルスカ (1958年没)
- ジョヴァンニ・ミケレット (1958年没)
同じ地域に関係する人物
- オラツィオ・ジェンティレスキ (1639年没)
- ボリス・フョードロフ (2008年没)
- マイケル・ティペット (1998年没)
- デヴィッド・プラウズ (2020年没)
- テリー・ジョーンズ (2020年没)