HISTORICAL PERSON · 1407年没

ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)

フランス王シャルル5世の子でシャルル6世の弟。兄の発狂後にブルゴーニュ公と対立し、1407年にパリの路上で無怖公の配下に暗殺された。ルイ12世の祖父、フランソワ1世の曽祖父にあたる。

生涯
1407年没
死亡地
フランス共和国(パリ / ル・マレ)
出生地
フランス共和国(サン=ポール館)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ルイ・ド・ヴァロワは、ルイ・ドルレアンとも呼ばれる百年戦争期のフランスの王族で、オルレアン公である。1372年3月13日に、フランス王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの次男として生まれ、シャルル6世の弟にあたる。のちのヴァロワ=オルレアン家の祖であり、孫はルイ12世、曽孫はフランソワ1世となった。

1374年、ルイはハンガリー王位の継承者とされたカタリナと婚約した。カタリナの父であるハンガリー王ラヨシュ1世には男子がなかったからである。しかしカタリナが1378年に亡くなって、縁談は消えた。1384年には、ラヨシュ1世の娘マリアとの縁談が持ち上がり、1385年4月に代理人を立てて結婚の式が行われた。ところがハンガリーのローマ教皇派の貴族たちはこの結婚を認めず、4か月後にジギスムントがハンガリーに攻め込んでマリアと結婚し、ルイがハンガリー王になる望みは絶たれた。

1386年にトゥーレーヌ公となった。兄シャルル6世は、叔父たちと母方の伯父ブルボン公ルイ2世に政治を任せていたが、ルイは兄に親政を勧め、1388年に叔父たちが遠ざけられた。翌1389年から、兄の顧問会議に出席して政治に関わり始め、同じ年に、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと叔母イザベルの娘で、従姉にあたるヴァランティーヌと結婚した。ところが1392年に兄が精神の異常のため政務をとれなくなると、叔父たちが復帰し、ルイはオルレアン公となった。1393年には王妃イザボー・ド・バヴィエールを議長とする摂政会議がつくられ、ルイは大きな影響力を持った。同じ1393年の「燃える人の舞踏会」では、ルイの持っていた松明が燃えやすい衣装に近づきすぎ、4人の踊り手が焼け死んだ。義姉のイザボーと不倫の関係にあるとの噂も立ち、パリの人々の信望を失った。摂政権と外交をめぐって、ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公と対立し、ジェノヴァ遠征の企ては、豪胆公に阻まれた。教会大分裂でも、ローマ教皇側の豪胆公に対して、ルイはアヴィニョン教皇側を支持した。1400年にローマ王ヴェンツェルが廃位されると、豪胆公は新しいローマ王ループレヒトを支持し、ルイはヴェンツェルを支持して、2人は事ごとに対立した。1401年には双方がパリ周辺に軍勢を呼び寄せて激突寸前になったが、イザボーやベリー公らの斡旋で和睦した。

1404年に豪胆公が亡くなって、息子のジャン無怖公がブルゴーニュ公になると、ルイはこの従弟とも対立した。1405年6月、カレーを包囲した無怖公が援助を求めたのを拒むと、7月に無怖公が軍勢を率いてパリへ迫り、恐れをなしたルイはイザボーや王太子らを連れてムランへ逃れた。ベリー公の調停で10月に和睦して、パリへ戻ったが、裏ではベリー公を味方につけ、無怖公の配下を政府から追い出して、自派の配下に入れ替えたため、無怖公の怒りを増した。1407年11月20日、2人は宮廷で和解を誓い合った。だがそのわずか3日後の23日、死産直後のイザボーを見舞った帰り、パリの街頭で、無怖公の配下の覆面の男たちに襲われて暗殺された。腕を切り落とされ、頭を斧で割られたという。無怖公は、政府がルイに握られることに焦ったためとされる。無怖公は殺害を公然と認め、1408年にシャルル6世から赦免された。1410年には、ルイの遺児シャルルとベリー公らが反発して、アルマニャック伯ベルナール7世らとともにアルマニャック派をつくり、ブルゴーニュ派と全面的に衝突することになった。

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