伝記
オリヴィエ・ド・クリッソンは、1336年4月23日にブルターニュのクリッソン城で生まれた、百年戦争期のブルターニュの貴族で軍人である。父は同名のオリヴィエ4世、母はジャンヌ・ド・ブルヴィルである。「屠殺者」の異名を持ち、フランス軍の総司令官も務めた。1343年、父はイングランドに通じたという疑いでフランスに捕らえられ、パリで処刑された。母ジャンヌは、息子のオリヴィエと弟ギヨームに父の仇討ちを誓わせ、軍資金を集めて、船を武装させて海でフランス船を襲った。やがて船を失い、母子は5日間漂流して、ギヨームは渇きと寒さと疲労で死んだ。オリヴィエと母はモンフォール派に救われた。母がイングランド人の軍人と再婚したため、オリヴィエはイングランドで育ち、のちのブルターニュ公位の主張者ジャン4世・ド・モンフォールとともに、エドワード3世の宮廷で成長した。
1359年、23歳のオリヴィエは、ジャン4世とともにブルターニュへ戻り、ブルターニュ継承戦争ではモンフォール家の側で戦った。1360年のブレティニーの和約で、フランス王家と和解し、父の名誉も回復された。同じ年に、ラヴァル家の相続人カトリーヌと結婚した。1364年のオーレの戦いでは、モンフォール側が勝ち、敵の大将シャルル・ド・ブロワが戦死した。クリッソンは負傷して片目を失い、率いた部隊が捕虜を取らなかったことから、「屠殺者」の異名を得たという。のちにモンフォール家と不和になり、フランスの支援するパンティエーヴル家の側についた。
1370年、クリッソンはジョスランに領地を得て、8つの塔を持つ新しい形のジョスラン城を築いた。同じ年、フランス王シャルル5世に忠誠を誓い、ベルトラン・デュ・ゲクランの幕下に入って、ポンヴァヤンの戦いなどに加わった。1374年には、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの率いる1万3000人のイングランド軍を、ゲリラ戦と疫病で消耗させ、半数を失わせたという。1380年にゲクランが亡くなると、クリッソンは総司令官の地位を受け継いだ。1382年にはローゼベーケの戦いで敵を退け、1387年にはブレストの攻囲やイングランド侵攻作戦を指揮したが、暴風とジャン4世の非協力のために失敗に終わった。
1387年6月、クリッソンはジャン4世にヴァンヌの議会に誘い込まれて捕らえられ、暗殺されかけたが、シャルル6世と諸侯の介入で、故郷クリッソンなど10の城と10万フランの身代金を払って解放された。1392年6月13日には、ピエール・ド・クランに襲われて刃に倒れたが、命は助かった。ジャン4世の懲罰に向かったシャルル6世が突然人事不省に陥って遠征が中断されると、王の叔父たちの中傷でクリッソンは失脚し、総司令官の職を取り上げられて、ジョスラン城に引きこもった。1395年にジャン4世と和解し、1399年にジャン4世が亡くなると、遺児の後見人に指名され、忠実に務めた。娘のマルグリットがジョスラン城を囲み、後見を覆すよう求めたが、クリッソンは頑として拒み、娘を殴ろうとして、逃げたマルグリットは足を骨折し、一生歩行が困難になった。1400年にはジャン4世の嫡男をジャン5世として即位させ、シャルル6世の三女ジャンヌと結婚させ、次男のアルテュールはかつての敵の豪胆公に後見させた。1402年に母のジャンヌ・ド・ナヴァールがイングランド王ヘンリー4世と再婚すると、息子たちがイングランドに連れ去られないよう手を打った。1407年4月23日、71歳でジョスラン城で亡くなった。最初の妻カトリーヌとの間には2女がいた。
同じ年に亡くなった人物
- ギオルギ7世 (ジョージア王) (1407年没)
- マリア・デ・ルナ (1407年)
- テオドロス1世パレオロゴス (1407年没)
- エヴドキヤ・ドミトリエヴナ (1407年没)
- コンラート・フォン・ユンギンゲン (1407年)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ド・モンフォール (1345年没)
- イサベル・デ・カスティーリャ (1283-1328) (1328年没)
- ビセンテ・フェレール (1419年没)
- Elsy Jacobs (1998年没)
- ジャン1世 (ブルターニュ公) (1286年没)