伝記
ジャン・シベリウスは、1865年12月8日、ロシア帝国の自治領だったフィンランド大公国のハメーンリンナに、スウェーデン語を話す家に生まれた。洗礼名はヨハン・クリスティアン・ユリウスだが、本人はヨハン・ユリウス・クリスティアンの順を用い、親しい者からはヤンネと呼ばれた。学生時代、船乗りの叔父がフランス語風に名乗っていたのに倣い、以降はジャンと名乗った。父は医師で、1868年7月に腸チフスで亡くなり、多額の借金が残された。母は不動産を売り払い、一家は祖母のもとに身を寄せたため、少年は女性ばかりの環境で育った。唯一の男性的な影響は音楽好きの叔父ペールで、十歳の彼にヴァイオリンを与え、作曲への関心を励ました。幼い頃から自然を愛し、夏を過ごしたロヴィーサの海岸を「自由な場所」と呼んだ。
七歳のときに叔母からピアノを教わり、姉リンダのピアノ、弟クリスティアンのチェロと三重奏を楽しんだ。1881年ごろに、ヴァイオリンとチェロのための短い曲『水滴』を書き残している。ヴァイオリンの指導を受けるとたちまちこの楽器に熱中し、偉大な奏者になろうと決意した。母語はスウェーデン語だったが、フィンランド語で教える学校へ進み、1885年に最終試験に合格した。同年ヘルシンキ大学で法学を学び始めたものの、すぐヘルシンキ音楽院に転じ、1889年まで学んだ。そこでマルティン・ヴェゲリウスに初めて正式な作曲を教わり、ピアニストで作曲家のブゾーニとは生涯の友情を結んだ。
1889年にはベルリンへ、続いてウィーンに留学し、カール・ゴルトマルクらに師事した。ベルリンではリヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』の初演などに接し、ウィーンではブルックナーの音楽に強くひかれた。ヴァイオリニストになる夢を諦めたのはこの頃で、のちに、十五歳以来ヴァイオリンばかり弾いていたが、名手の道を始めるには遅すぎたと認めざるを得なかったのがつらかったと語っている。1891年に『クレルヴォ交響曲』に取りかかり、1892年4月28日にヘルシンキで初演した。独唱と男声合唱を伴う大曲で、初演は大成功だったが、生前に全曲が再び演奏されることはなかった。同じ1892年6月、アイノ・ヤルネフェルトと結婚し、新婚旅行で訪れたカレリアが『エン・サガ』『レンミンカイネン組曲』『カレリア』の着想を与えたという。夫妻には六人の娘が生まれ、うち一人は二歳で亡くなった。
1899年の『愛国記念劇』の第七曲が改作され、交響詩『フィンランディア』として独立して人気を博した。1904年にはヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに自邸アイノラを建て、1908年に喉の腫瘍を摘出する手術を受けている。七曲の交響曲がその主軸で、ほかに『悲しきワルツ』、ヴァイオリン協奏曲、『トゥオネラの白鳥』などが広く知られる。1915年の五十歳の誕生日の記念行事のために交響曲第5番が作られた。しかし1923年の第6番、1924年の第7番、1925年の『タピオラ』を頂点に、以後は重要な作品がほとんど発表されなくなった。この三十年ほどの謎めいた隠居は「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれる。作曲をやめたわけではなく、未完の交響曲第8番に取り組み、旧作を手直しし、フリーメイソンの音楽も書いたという。
1957年9月20日、ヤルヴェンパーで脳出血のため世を去り、ヘルシンキ大聖堂で国葬が営まれて、棺はアイノラの庭に葬られた。フィンランドでは2002年のユーロ導入まで、百マルッカ紙幣に肖像が描かれ、2011年以降は誕生日の12月8日が「フィンランド音楽の日」とされている。
同じ年に亡くなった人物
- ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ (1957年没)
- アルノルト・ファン・ヘネップ (1957年没)
- 船越義珍 (1957年没)
- 張彭春 (1957年没)
- ハラルド・スヴェルドラップ (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- グンナー・ノルドシュトルム (1923年没)
- ペルッティ・プルホネン (2011年没)
- エドフィン・ライネ (1989年没)
- クラス・ツンベルグ (1973年没)
- フレディ (2021年没)