伝記
ベルトルト・ブレヒトは、1898年2月10日にバイエルン王国のアウクスブルクで生まれたドイツの劇作家、詩人、演出家である。父は製紙工場の支配人で、母は福音主義教会の信徒だったため、ブレヒトは母の宗旨に従ってルター派の洗礼を受けた。早くから詩や評論を書き、16歳で戯曲『聖書』を執筆した。当時のドイツ文学では異端だったグラッベやビューヒナー、ヴェーデキントを愛読している。1917年にミュンヘン大学の哲学部に入り、のちに医学部へ転じたが、文学や音楽、舞台芸術に没頭した。1918年には、無頼の詩人を主人公にした処女戯曲『バール』を書いた。同じ年の10月に招集され、陸軍病院で衛生兵として働いたが、1か月余りで第一次世界大戦は終わった。
1919年にはベルリンで蜂起が鎮圧され、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが殺害された。この事件を題材にした戯曲の初稿が、のちに『夜うつ太鼓』となった。同年秋から独立社会党の機関紙で市立劇場の劇評を担当し、既成の演劇への反発から辛辣な批評を書いた。1920年と1921年にはベルリンを訪れ、表現主義の作家や俳優と親しくなり、アルノルト・ブロンネンにちなんで名をベルトルトと改めた。1922年夏、『夜うつ太鼓』がミュンヘンの室内劇場で初演されると、劇評家に激賞されてクライスト賞を受け、一躍脚光を浴びた。同年末に最初の妻マリアンネ・ツォフと結婚して娘ハンネが生まれたが、1927年に離婚している。1923年にベルリンのドイツ座の文芸部員となり、女優ヘレーネ・ヴァイゲルと出会って、のちに生涯の伴侶とした。
1926年頃からマルクス主義の学習を始め、『資本論』を熟読した。1928年には、ジョン・ゲイ『乞食オペラ』を翻案した『三文オペラ』を書き、作曲家クルト・ヴァイルの曲とともに初演して、非常な成功を収めた。1930年頃からは「教育劇」と呼ばれる一連の作品を発表し、作曲家ハンス・アイスラーとの協力は死まで続いた。1933年2月28日、国会議事堂放火事件の翌日に、ユダヤ人だった妻のヴァイゲルと長男を連れてプラハ行きの汽車に乗り、亡命の途についた。5月にはナチ党政府が著作を焚書の対象とし、1935年にはドイツ市民権も剥奪された。
デンマークに約5年間滞在したのち、1939年にスウェーデンに移り、ストックホルム沖の小島で女性の酒保商人の話に触発されて、『肝っ玉お母とその子供たち』を2か月ほどで書き上げた。ナチスが北欧に侵攻するとフィンランドに逃れ、1941年にはモスクワとウラジオストクを経由してアメリカのカリフォルニア州サンタモニカに移ったが、ハリウッドへの脚本の売り込みはうまくいかず、経済的に困窮した。『ガリレイの生涯』は亡命時代に三度書き直している。1947年10月30日に下院の非米活動委員会の審問を受けると、翌日にはパリ経由でチューリッヒへ向かった。1948年に東ドイツへ入り、東ベルリンに居を構えて、1949年にベルリーナー・アンサンブルを結成した。
ブレヒトは自身の演劇を、観客を役に感情移入させる従来の演劇に対して「叙事的演劇」と呼び、見慣れたものに奇異の念を抱かせる「異化効果」などの理論で、戦後の演劇界に大きな影響を与えた。1954年にはパリ国際演劇祭で最優秀上演と最優秀演出を受けて、世界的な名声を得た。1955年にスターリン平和賞を受賞し、1956年8月14日、心臓発作のためベルリンで死去した。遺言に従って遺体は錫の棺に収められ、墓はヘーゲルとフィヒテの墓に向き合う形で、ベルリン中心部のドローテン墓地に造られた。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・シュターレンベルク (1956年没)
- パウル・クレッチマー (1956年没)
- ローベルト・ヴァルザー (1956年没)
- グィード・カンテッリ (1956年没)
- リュシアン・フェーヴル (1956年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィルヘルム・ピーク (1960年没)
- フリードリヒ・キットラー (2011年没)
- ヨハン・ゴットリープ・グラウン (1771年没)
- H.H.エーヴェルス (1943年没)
- マックス・ヴァリエ (1930年没)