伝記
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ラインホルト・ピークは、1876年1月3日にドイツ東部ナイセ川沿いの街グーベンで、御者の家に生まれた共産主義の政治家で、東ドイツの初代にして唯一の大統領である。2歳のときに母アウグステが亡くなり、父フリードリヒと再婚したヴィルヘルミーネのもとで育った。小学校を出ると1890年に大工の見習いとなり、見習いを終えた1894年ごろに初めて労働者運動と接した。1894年に自由労働組合に参加し、翌年ドイツ社会民主党(SPD)に入党した。1896年からブレーメンに住んで1906年まで大工として働き、1898年に裁縫師クリスティン・ヘフカーと結婚して3人の子をもうけた。ブレーメンでは党や労働組合の役職を歴任し、次第に党内左派の立場を強め、1910年まで市の議員も務めた。1907年から1908年にかけてベルリンの党中央学校で学び、そこでローザ・ルクセンブルクやフランツ・メーリングと知り合い、国際主義派に加わるようになった。
第一次世界大戦が始まると、戦争に積極的なエーベルトら党内右派と袂を分かち、ルクセンブルク、メーリング、カール・リープクネヒトらと国際主義派を結成した。1915年5月には大規模な反戦女性デモを組織した疑いで逮捕され、10月まで勾留された。1916年1月にスパルタクスグループを形成し、同年3月から歩兵として西部戦線に従軍し、ヴェルダンやソンムの戦いにも参加した。12月にSPDの全役職を解任され、翌年4月にはゴータで開かれたドイツ独立社会民主党の創立大会に参加した。1917年6月、戦争は犯罪だとして前線への復帰を拒み、営倉に入れられたが、上訴審で無罪となった。その後は脱走してベルリンの地下組織に潜伏し、1918年1月の軍需工場のストライキの準備に協力した。
1918年のドイツ革命に参加し、11月にルクセンブルクらとスパルタクス団を結成した。年末から翌年1月にかけてドイツ共産党(KPD)の結党に加わり、政治局員となった。1月5日のスパルタクス団蜂起では義勇軍に捕らえられたが、息子らの助けで脱出した。しかし、この脱出には疑惑がつきまとい、1929年には党首テールマンが彼を党の名誉裁判にかけている。1921年にコミンテルンの代表委員に選ばれてレーニンに接し、1924年のレーニンの追悼式典でスターリンと出会った。1928年に国会議員に当選し、1931年にはコミンテルン代表委員長となった。1933年にナチスが政権を握り、共産党が非合法化されると、1934年5月にフランスへ亡命し、1935年からは主にモスクワに滞在した。スターリンの大粛清で多くのドイツ人共産主義者が犠牲になるなか、ヴァルター・ウルブリヒトら、スターリンに忠実なグループに属して免れたとされる。1943年には、ソ連主導の自由ドイツ国民委員会の創設者の一人となった。
1945年の終戦後、赤軍とともにドイツに入って共産党を再建し、ソ連占領地域のSPDとKPDを半ば強制的に併合させて、1946年にオットー・グローテヴォールとともにドイツ社会主義統一党(SED)の共同議長となった。1949年に東ドイツが建国されると、73歳で初代大統領に就いた。1950年にウルブリヒトが第一書記になるとSED議長の座は失ったが、他の地位は維持した。国民の間には人気があったが、党内で大きな影響力を持つことはなく、晩年は健康が悪化して公の場にほとんど現れなかった。1960年9月7日、心臓発作で亡くなった。旧東ドイツ時代には、出身地のグーベンが公式に「ヴィルヘルム・ピーク都市」と呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- エリーザベト・アマーリエ・フォン・エスターライヒ (1960年没)
- ハサン・サカ (1960年没)
- ロイ・チャップマン・アンドリュース (1960年没)
- ネスタ・ヘレン・ウェブスター (1960年没)
- アンリ・ギザン (1960年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ (1911年没)
- マンフレート・ゲルラッハ (2011年没)
- ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ (1928年没)
- クラウス・フックス (1988年没)
- ハイマン・シュタインタール (1899年没)