HISTORICAL PERSON · 1400年没

リチャード2世 (イングランド王)

プランタジネット朝最後のイングランド王。10歳で即位し、1381年のワット・タイラーの乱を収めたが、側近を重用する専制が反発を招いた。1399年に従弟ボリングブルックらに王位を追われ、翌年死去した。

生涯
1400年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェイクフィールド / ポンテフラクト城)
出生地
フランス共和国(ボルドー)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェイクフィールド)

伝記

リチャード2世は、1367年1月6日にボルドーで生まれたプランタジネット朝最後のイングランド王である。父は王太子エドワード黒太子、母はジョーン・オブ・ケントで、次男として生まれた。生地にちなみリチャード・オブ・ボルドーと呼ばれた。兄エドワードが1372年に7歳で、続いて1376年に父が死去したため、祖父エドワード3世からコーンウォール公に叙されて後嗣に指名され、1377年6月に祖父が没すると10歳で王位を継いだ。

幼い王のもとでは叔父の誰も摂政とならず、貴族たちの集団指導体制がとられたが、筆頭に選ばれたランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの発言権が強かった。1378年と1380年の大陸遠征は成果を上げず、戦費のための人頭税は下層に重い税制だった。1381年6月、増税に反対する農民と労働者がエセックスの煉瓦工ワット・タイラーに率いられて蜂起し、ランカスター公の屋敷が焼かれ、財務府長官と尚書部長官が殺害され、反乱軍はロンドンへ迫った。リチャード2世はタイラーとの面会に応じたが、翌日にロンドン市長がタイラーを刺殺し、指導者を失った反乱は鎮圧された。

1383年に親政を始めると、側近のマイケル・ド・ラ・ポールをサフォーク伯に、ロバート・ド・ヴィアーをアイルランド公に叙して重用した。外交の失敗と寵臣への厚遇、議会や貴族を軽んじる態度への不満が高まり、1386年に議会はサフォーク伯を弾劾した。王はロンドンを離れて徴兵を始めたが、グロスター公らの訴追派貴族が軍備を整えてアイルランド公の国王軍を破り、1388年2月の非情議会で側近たちは追放や処刑に遭った。訴追派が実権を握ったものの内部対立などで支持が揺らぎ、1389年5月に王は親政を宣言して主導権を取り戻した。その後は1394年から翌年にアイルランドへ遠征して入植者と先住民ゲール人の対立を収める一方、平和外交を進めてフランスと休戦を重ね、1396年にはシャルル6世の娘イザベラ・オブ・ヴァロワとの結婚が実現したが、この和睦はイングランドでは評判が悪かった。

1397年、王は訴追派貴族を逮捕して処罰し、グロスター公は監禁先のカレーで暗殺、アランデル伯は死刑となった。翌年には従弟ボリングブルックとノーフォーク公を決闘寸前で止めて国外追放とし、1399年にランカスター公が死ぬと、その広大な公領を没収して貴族層の離反を決定的にした。5月に二度目のアイルランド遠征へ出た留守に、7月ボリングブルックが挙兵すると北部貴族らが合流し、ヨーク公も降伏した。帰途の王はウェールズ国境付近で降伏して捕らえられ、ロンドン塔に幽閉されて9月29日に廃位された。

翌30日にボリングブルックがヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が開かれた。リチャードは各地に移され、1400年2月14日にポンテフラクトで33歳で死去した。詳しい死因は不明で、餓死させられたと伝えられる一方、自殺説や他殺説もある。遺体は当初ハートフォードシャーに葬られ、のちヘンリー5世がウェストミンスター寺院に改葬した。1382年に結婚した最初の妃アン・オブ・ボヘミアとは仲睦まじく、1394年にアンがペストで亡くなると大いに悲しみ、二人で過ごしたシーン離宮の破却を命じた。アンはウェストミンスター寺院に葬られ、王と手をつなぐ墓像が建てられている。

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