伝記
トマスは、第2代ランカスター伯爵として知られるイングランドの大貴族である。一二七八年ごろ、イングランド王ヘンリー3世の次男である初代ランカスター伯エドマンドと、フランス王ルイ9世の弟の娘ブランシュの長男として生まれた。母はもともとナバラ王の妃であったため、トマスはフランス王妃ジャンヌの異父弟でもあった。一二九四年にリンカーン伯の娘アリス・ド・レイシーと結婚し、一二九六年に父が亡くなるとランカシャーなどにまたがる莫大な所領を受け継いだ。北部の要衝にも多くの城を持ち、ポンテフラクト城を居城として好んだ。一二九八年には正式にランカスター伯とレスター伯の位を継ぎ、同じころ叔父の国王エドワード1世のスコットランド遠征に従って、フォルカークの戦いにも加わっている。
一三〇七年に従弟のエドワード2世が即位すると、新王は寵臣ピアーズ・ギャヴィストンを重用し、諸侯と対立した。トマスも反国王派の一人となり、一三一〇年には政治改革の勅令をまとめる委員会に加わって、国王に改革とギャヴィストンの追放を迫った。一三一一年に岳父のリンカーン伯が亡くなると、妻の権利でその爵位と所領を継ぎ、イングランド最大の貴族となった。国王の従兄という出自の良さもあって、反国王派のリーダー格に担がれた。追放されたギャヴィストンが一三一二年に帰国して国王と合流すると、諸侯は進軍して二人を降伏させた。ギャヴィストンは第10代ウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムに奪われ、トマスらの立ち会いのもとで斬首された。これに国王は憤慨し、諸侯の結束も崩れた。
一三一四年、エドワード2世はスコットランドへ出征してバノックバーンの戦いで惨敗し、権威を大きく落とした。トマスは第2代ペンブルック伯との不仲からこの戦いに加わらなかった。国政の主導権がトマスの手に移ったが、彼は改革勅令を守ることを基本とするだけで、積極的に政治を動かさなかったため、国王や諸侯との溝が深まった。妻のアリスが彼のもとを離れてサリー伯のもとへ走ったことも、孤立に拍車をかけた。一三一六年の議会で評議会の首席の地位を与えられたものの、まもなくペンブルック伯ら中間派に実権を奪われた。同じ年に宮廷を去ったが、一三一八年には穏健派の貴族のとりなしで国王と和解した。
やがて国王の新しい寵臣ディスペンサー父子が台頭すると、トマスは一三二〇年以降、この父子との対決に力を注いだ。一三二一年には国王に父子の追放を認めさせたが、国王はのちに二人を呼び戻した。これに激怒したトマスは徹底して争う決意を固め、同年の夏から冬にかけて反対勢力を集め、最後通牒を送り、北部の王権の拠点に先制攻撃をしかけた。しかし国王軍の反撃を受け、一三二二年三月のバラブリッジの戦いで敗れた。地元の民兵に捕らえられ、ペンブルック伯ら七人の面前に引き出され、国王への反逆の罪で処刑された。爵位と所領は没収された。
トマスが起草に携わった改革勅令には、民衆の強い支持を受けた条項もあった。それを一貫して王宮に求めたため、存命中から熱心な支持者がおり、死後は処刑された場所の近くで奇跡が起きたともいわれ、反国王派の人々や民衆から殉教者として慕われた。一三二七年にエドワード2世が退位すると、反逆の判決は取り消され、一三二九年に弟のヘンリーが爵位を継ぐことを認められた。のちに聖人としての列聖が教皇に何度か願い出されたが、いずれも実らなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルギ2世テルテル (1322年没)
- ナスル (ナスル朝) (1322年没)
- ロベール3世 (フランドル伯) (1322年没)
- マリー・ド・リュジニャン (アラゴン王妃) (1322年(推定))
- ルスティケロ・ダ・ピサ (1322年)
同じ地域に関係する人物
- ジョセフ・アスプディン (1855年没)
- リチャード2世 (イングランド王) (1400年没)
- アンソニー・ウッドヴィル (第2代リヴァーズ伯爵) (1483年没)
- リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公) (1460年没)
- スミス・ウィグルスワース (1947年没)