伝記
ジェフリー・チョーサーは、1343年頃にロンドンで生まれたとされるイングランドの詩人である。ただし正確な生年月日と出生地は分かっていない。家系はもともとイプスウィッチの豪商で、祖父も父ジョンもロンドンのワイン商人だった。父ジョンは、大金持ちの叔母に連れ出されて叔母の12歳の娘と結婚させられそうになったことがあり、叔母は投獄されて250ポンドの罰金を科されたと伝わる。結局ジョンは別の娘と結婚し、叔母の所有していたロンドンの大店舗を受け継いだ。チョーサーは当時の裕福な上流中産階級の出であったといえる。
1357年、アルスター女伯エリザベス・ド・バラの台帳にその名が見え、父の縁故で上流社会に入ったと思われる。以後、廷臣、外交使節、官吏としてエドワード3世とリチャード2世に仕えた。1359年には女伯の夫クラレンス公ライオネルの従者として百年戦争に加わってフランスへ渡り、12月にランスで捕虜となった。翌年3月にエドワード3世が16ポンドの身代金を支払って釈放され、その後プレティニーの和約の際にも従者として出向いた記録がある。しばらく消息は途絶えるが、使節としてフランス、スペイン、フランドルへ赴いたのだろうとされ、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼した可能性もある。
1366年には、王妃フィリッパの侍女フィリッパ・ドゥ・ロエと結婚した。妻の妹キャサリン・スウィンフォードはランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子女の家庭教師で、のちに公の愛人となり、3番目の妻となった。この公がのちにチョーサーの庇護者となる。1367年6月20日には、王の側近としてエスクワイアの身分にあったと記録されている。イタリアへも外交使節として赴き、ペトラルカと親交を結んだとされる。その手がかりとして、1368年にクラレンス公がミラノでヴィスコンティ家の娘ヴィオランテと再婚した婚儀が挙げられ、ペトラルカも出席し、チョーサーも同席した可能性がある。ペトラルカの影響で、チョーサーはソネット形式を英文学に導入したという。1370年にはジェノヴァ、1373年にはジェノヴァとフィレンツェにも赴いた。
1374年には年俸10ポンドでロンドン税関に着任し、1385年か1386年まで羊毛や皮革の徴税に携わった。1378年にはリチャード2世の密命を受けてミラノに渡り、ヴィスコンティ家や傭兵隊長ジョン・ホークウッドと傭兵の雇い入れを交渉した。ホークウッドの出で立ちは、『カンタベリー物語』の「騎士の物語」に影響を与えたと見られている。
1394年にリチャード2世から20ポンドの年金を授けられ、1399年に即位したヘンリー4世もこれを更新した。1400年6月5日には未支払の年金の一部が支払われた記録がある。チョーサーは1400年10月25日に死去したとされるが、この日付の証拠は死後100年以上を経て建てられた墓石だけである。主著『カンタベリー物語』は、カンタベリー大聖堂へ向かう巡礼者たちが語る体裁の説話集で、未完ながら中英語を代表する作品となっている。ほかに恋愛物語詩『トロイルスとクリセイデ』や追悼詩『公爵夫人の書』があり、『アストロラーベに関する論文』は同観測機器の初の英語版解説書とされる。ラテン語でもフランス語でもなく、世俗の言葉である中英語で物語を書いた最初の文人ともされ、「英詩の父」と呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- アンドレ・ボーヌヴー (1400年(推定))
- アントニオ・ヴェニエル (1400年)
- フランコ・サッケッティ (1400年)
- フリードリヒ1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公) (1400年没)
- ジャン・フロワサール (1400年代没)
同じ地域に関係する人物
- ウォルター・ゴテル (1997年没)
- リチャード・ハクルート (1616年没)
- マイケル・ワイルディング (1979年没)
- ニコラウス・ペヴズナー (1983年没)
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