HISTORICAL PERSON · 1397年没

アンゲラン7世・ド・クシー

クシー領主でソワソン伯。イングランドとフランス双方への忠誠を保ち中立を貫いたが、ニコポリス十字軍に参加して捕虜となり、傷がもとで死去した。

生涯
1397年没
死亡地
トルコ共和国(ブルサ県 / ブルサ)
出生地
—
出典
世界地図
トルコ共和国(ブルサ県)

伝記

アンゲラン7世・ド・クシーは、1340年に生まれ、1397年2月18日に没したフランスの貴族である。アンガラン7世とも表記される。クシー、マルル、ラ・フェール、クレシー=シュル=セール、オワジーの領主で、ソワソン伯、またイングランドでのベッドフォード伯でもあった。父はクシー領主アンゲラン6世、母はオーストリア公レオポルト1世の娘カタリーナである。

1346年、アンゲランが7歳のとき、父はクレシーの戦いの際に戦死した。1349年にはペストがピカルディに及び、母カタリーナも再婚相手とともに亡くなった。15歳の1355年には、ピカルディの諸侯とともに、黒太子率いるイングランド軍の侵入への抵抗に加わった。翌1356年のポワティエの戦いでは、国王ジャン2世がイングランドに敗れて捕虜となったが、アンゲランはモロー・ド・フィエンヌの隊にいたとされ、直接戦ったかは確かでない。翌1358年に農民反乱のジャックリーが起きると、年代記は、アンゲランをジャックたちを最も容赦なく追った領主の一人として描いている。

1360年のブレティニー条約により、アンゲランは、ジャン2世の身代金の担保となる人質の一人としてイングランドへ送られた。ロンドンでの人質生活で、イングランド王エドワード3世の長女イザベラに気に入られ、1365年7月27日にウィンザー城で結婚した。エドワード3世のはからいで、身代金を払わずに人質から解放された。持参金代わりにクシーに隣接するソワソン伯領を贈られ、国王の婿としてイングランド議会でベッドフォード伯の地位を与えられた。アンゲランは1367年に帰国した。

休戦が破られると、双方の王への忠誠を保ち、イングランドと直接戦うことを避けるため、1369年に母の遺産を手に入れようと軍を率いてアルザスへ向かったが、スイスで激しい抵抗を受けて失敗した。この記憶が、1390年に逆さの冠を象徴とする「王冠騎士団」の創設につながったという。1372年から1373年にはアヴィニョンの対立教皇クレメンス7世のため、イタリアで戦った。その中立は英仏両国で名誉の典型とされた。1377年にエドワード3世が没すると、イングランドの領地などの権利を全て放棄すると新王リチャード2世に伝え、フランス貴族としてイングランドと戦う道を選んだ。このとき妻イザベラと次女フィリッパは別居し、イングランドに残った。1380年、ベルトラン・デュ・ゲクランの後任としてフランス軍総司令官の座を求められたが断り、その地位にはオリヴィエ・ド・クリッソンが就いた。同年のシャルル6世の戴冠式に出席した。1382年にはマイヨタンの反乱の鎮圧のためパリに入り、国王の特使としてブルターニュ公やジェノヴァなどと折衝した。1386年にはロレーヌ公ジャン1世の娘イザベルと再婚した。1391年にソワソン伯領はルイ・ドルレアンに与えられ、アンゲランはアムの町をマリー・ド・アムから買い取った。1392年にクリッソンが襲われ、シャルル6世が発狂すると、実権を握った国王の叔父ブルゴーニュ公フィリップに協力したが、総司令官への就任要請は断った。

1396年、ブルゴーニュ公ジャンとハンガリー王ジギスムントが率いるニコポリス十字軍に参加した。9月25日のニコポリスの戦いでバヤジット1世に敗れ、アンゲランはビテュニアで捕虜となり、翌年に傷がもとでブルサで死去した。遺体はノジャンに、心臓はソワソンの修道院に葬られた。男子がなく、長女マリーが継ぎ、1400年にクシーの領地をルイ・ドルレアンに40万ポンドで売却した。

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