伝記
イザベラ・オブ・カスティルは、イングランド王族の初代ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーの妃である。1355年ごろに生まれ、1392年12月23日に没した。カスティーリャ王ペドロ1世と、その寵愛した愛人マリア・デ・パディーリャ(1361年没)の間に生まれた3人姉妹の末っ子で、スペイン語ではイサベルと呼ばれる。
1369年に父ペドロ1世が亡くなると、姉のコンスタンスがカスティーリャの王位を主張した。1371年9月21日、イングランド王エドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントが、この姉コンスタンスと結婚した。イザベラは姉に付き添ってイングランドへ渡り、1372年7月11日、17歳ほどで、ジョンの弟で王の五男にあたるエドマンド・オブ・ラングリーと、オックスフォードシャーのウォリングフォードで結婚した。これは、プランタジネット家がカスティーリャの王位を主張するための、王朝同盟の一環だった。2人は「不釣り合いな夫婦」だったといわれる。
夫妻には2男1女が生まれた。1373年ごろにエドワード・オブ・ノリッジ、1374年ごろにコンスタンスが生まれ、末の子としてリチャード・オブ・コニスバラがいた。イザベラは1379年に、ガーター勲爵士の婦人に任じられている。一方で、国王リチャード2世の異父兄にあたる初代エクセター公ジョン・ホランドとの不倫を含む行いのために、悪評を残した。年代記作者トマス・ウォルシンガムも、その身持ちの悪さを書きとめている。お気に入りの息子だったリチャード・オブ・コニスバラの父はホランドだったという可能性も否定できないとされる。
イザベラは遺言で、国王リチャード2世を相続人に指名し、下の息子リチャードに年金500マルクを与えるよう求めた。国王はこれに応じた。1392年12月23日、イザベラは37歳ほどで亡くなり、1393年1月14日、キングス・ラングリーのドミニコ会修道院に葬られた。その後、エドマンド・オブ・ラングリーは、第4代ケント伯エドマンド・ホランドの姉妹で共同相続人のジョーン・ホランドと再婚した。
1399年にリチャード2世が廃位されると、さらなる恩恵は期待できなくなり、下の息子リチャードは新王ヘンリー4世から恩恵を受けられなかった。そのリチャード・オブ・コニスバラは、1415年8月5日、サウサンプトン陰謀事件に加わった罪で斬首された。長男エドワードも同じ1415年の10月25日、アジャンクールの戦いで戦死した。
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