伝記
アラン・マシスン・チューリングは、1912年6月23日にロンドンのメイダヴェールで生まれたイギリスの数学者・暗号研究者・計算機科学者である。父ジュリアスはインド高等文官で、母エセルはインドで彼を身ごもった後、イギリス本国での養育を考えて帰国した。両親は任地のインドと英国を行き来したため、アランと兄ジョンは友人に預けられた。文字を読むことを3週間で覚え、数字に強くパズルも得意だったという。1926年、14歳でシャーボーン校に入学した。登校初日がゼネラル・ストライキの予定日と重なったため、前日から100キロの道のりを一人で自転車で行き、途中で宿をとって登校して地元紙に載った。古典を重んじる校風のなか、彼は数学と科学に才能を示した。1928年にアインシュタインの文章に触れ、16歳でその内容を理解したと伝えられる。同性の親友クリストファー・モルコムを1930年に牛結核症で亡くしたことがきっかけで、無神論者になったとされる。
ケンブリッジ大学キングス・カレッジで1931年から学び、1935年には中心極限定理を証明した論文が認められてフェローに選ばれた。1936年、「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」を提出し、チューリングマシンという計算モデルを示してアルゴリズムを形式的に表現する手法を確立した。どんな機械の動作も模倣できる万能チューリングマシンの存在を示し、これを用いて停止性問題を否定的に証明している。同じころ、アロンゾ・チャーチも別の方法で同様の結論に達しており、のちのチャーチ=チューリングのテーゼにつながった。1936年9月から1938年にかけてプリンストン大学でチャーチに師事し、1938年に博士号を得た。そこでジョン・フォン・ノイマンと親交を結び、ノイマンからアメリカに残るよう勧められたという。1939年にケンブリッジに戻るとウィトゲンシュタインの講義に参加し、数学は真理の発見ではなく発明だとする相手に対し、形式主義を擁護したという。
1938年から政府暗号学校で非常勤として働き、開戦の翌日の1939年9月4日にブレッチリー・パークへ出頭した。ポーランドが解明したエニグマの情報を土台に、より汎用的な方法を考案し、暗号機の設定を見つけるための機械ボンブの仕様に盛り込まれた。ドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門の責任者となり、統計的手法バンバリスムスの開発なども成し遂げた。1945年に功績でOBEを授与されたが、業績は1970年代まで秘密にされ、近しい友人や家族もその仕事を知らなかった。職場では変人で通っており、花粉症の季節にはガスマスクをつけて自転車で通勤し、マグカップを盗まれないようラジエータの管に鎖でつないでいた。長距離走も得意で、マラソンのベストタイムは2時間46分3秒、1948年ロンドン五輪の代表選考では5位になった。
戦後は国立物理学研究所でプログラム内蔵式コンピュータACEの設計に携わり、1947年にマンチェスター大学へ移って初期のコンピュータのソフトウェア開発に従事した。数理生物学にも関心を向け、形態形成の化学的基礎を論じた。1952年に同性愛の罪で逮捕されて保護観察となり、転向療法としてホルモン治療を受けた。1954年に41歳で亡くなり、検死では青酸中毒による自殺とされたが、母や一部の友人は事故だと信じていた。2009年、首相ゴードン・ブラウンが、戦後の政府の扱いについて公式に謝罪した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァン・ヴァルフリート・エクマン (1954年没)
- フリッツ・ロンドン (1954年没)
- ホセ・ミリャン・アストライ (1954年没)
- エヴァルト・フォン・クライスト (軍人) (1954年没)
- ハインツ・グデーリアン (1954年没)
同じ地域に関係する人物
- アラン・アコート (2009年没)
- ボビー・チャールトン (2023年没)
- ジェイロイド・サミュエル (2018年没)
- ウィリアム・マーチン (1810年没)
- イアン・カーティス (1980年没)