HISTORICAL PERSON · 1385年没

ベルナボ・ヴィスコンティ

ミラノの僭主。兄ガレアッツォ2世と謀って長兄を毒殺し、東部を治めた。教皇と度々争って破門を受け、ヴェネツィアと組みキオッジャ戦争を起こした。1385年に甥のジャン・ガレアッツォに廃位され毒殺された。

生涯
1385年没
死亡地
イタリア共和国(ミラノ県 / トレッツォ・スッラッダ)
出生地
イタリア共和国(ミラノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ミラノ県)

伝記

ベルナボ・ヴィスコンティは、14世紀のミラノの僭主である。1323年にミラノで生まれ、1385年12月に没した。2人の兄マッテーオ2世、ガレアッツォ2世と共同で支配に当たった。教皇や皇帝にも臆することなく立ち向かったが、領民には冷酷だったといわれる。

父はミラノの僭主ステーファノ・ヴィスコンティ、母はヴァレンティーナ・ドーリアで、3男として生まれた。ベルナボという名は、かつてジェノヴァの支配者だった母方の祖父にちなむ。生まれる前年には、祖父マッテーオ1世が教皇を暗殺しようと企てたとして、ヴィスコンティ家の全員が異端の罪で破門されていた。1327年に父ステーファノが急死すると、子どもたちは母に育てられた。叔父ルキーノの治世にはいくつかの務めを与えられたが、1346年に叔父と対立して国外に逃れた。1349年にルキーノが死ぬと、別の叔父である枢機卿ジョヴァンニに呼び戻され、兄たちとともにミラノの僭主となった。1350年9月27日には、ヴェローナの僭主マスティーノ2世の娘レジーナと結婚し、ヴェローナとの政治的・文化的な同盟を築いた。2人の間には15人の子が生まれた。1354年に叔父ジョヴァンニが死ぬと、兄たちとともに親政を始め、ベルナボは、ベルガモ、ブレシア、クレモナ、クレーマなど、ヴェローナに近い東部を治めた。1355年に長兄マッテーオが死ぬと、ベルナボとガレアッツォが毒殺したと噂され、2人はその所領を分け合った。

1356年、神聖ローマ皇帝カール4世と敵対し、皇帝の代理として攻めてきたアクイレイア総大司教マルクヴァルト・フォン・ランデックを生け捕りにした。1360年、教皇インノケンティウス6世は彼を異端と告発し、皇帝もこれに同調した。争いは、1361年7月29日に、皇帝側のガレアッツォ1世・マラテスタに、サン・ルフィロで惨敗したことで終わった。1362年には、姪の夫ウゴリーノ・ゴンザーガの死をきっかけにマントヴァを攻め、複数の敵を相手にしたため、12月にフランス王ジャン2世の仲介で、教皇ウルバヌス5世と和睦した。しかしボローニャの返還やアヴィニョンでの恭順を果たさなかったため、1363年3月に再び破門された。庶長子のアンブロージョは教皇軍に捕らえられた。1364年3月の和睦で、ベルナボはボローニャを明け渡し、50万フローリンの賠償金を払って破門を解いてもらった。

1368年の春、義弟のヴェローナ僭主カンシニョーリオと組んで、再びマントヴァを攻めた。1371年にはレッジョ・エミリアの領有を認めさせたが、続いて、エステ家のフェラーラとモデナへの攻撃を仕掛けたため、教皇グレゴリウス11世の怒りを買った。1373年、教皇が送った使者が、ベルナボと兄ガレアッツォに破門の文書を渡すと、ベルナボは怒り、使者を捕らえて、文書と封印と絹の紐を食べさせるまで解放しなかったという。ミラノのペストの広がりも精力的に抑えた。1378年にはヴェネツィアと組み、ジェノヴァと戦ってキオッジャ戦争を起こしたが、1379年9月、ヴァル・ビサーニョで敗れた。

専制的な統治と重税は多くの領民の怨みを買い、1385年5月、甥で娘婿のジャン・ガレアッツォに廃位された。トレッツォ・スッラッダの城に閉じ込められ、同年12月に毒殺されたとされる。その末路は、チョーサーの『カンタベリー物語』の「修道僧の話」で、暴君の典型として紹介された。死後、墓を飾る騎馬像が、彫刻家ボニーノ・ダ・カンピオーネによって作られ、今はスフォルツェスコ城にある。

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