伝記
イヴァン・アレクセーエヴィチ・ブーニンは、1870年10月22日(ユリウス暦では10月10日)、ヴォロネジ県にある一家の領地で、三男として生まれたロシアの作家である。父アレクセイは強健で気性が激しく、賭け事に溺れた人物で、母リュドミラは繊細でやさしい人柄だったという。母は息子にロシアの民間伝承の世界を教えた。上の二人の兄は数学や絵画に関心を示したが、母は「ワーニャは生まれたときから違っていた」と語り、ほかの子にはない心の持ち主だとみていた。本人も、絵画への情熱が自分の文章に表れていると自伝に記している。長い貴族の家系で、詩人のアンナ・ブーニナやヴァシリー・ジュコフスキーが先祖に連なることを誇りにしていた。幼い頃を過ごしたブトゥィルキやオゼルキの農場は、野原の深い静けさや雪の吹きだまりに囲まれた場所で、ブーニン自身は憂愁の詩情に満ちた少年時代だったと語っている。感受性は並外れており、昴の七つの星が見え、一露里先のマーモットの笛が聞こえたと回想している。
最初の家庭教師はロマシコフという元学生で、のちには、ナロードニキの活動で大学から送還された兄ユーリーが、心理学や哲学、社会科学を教えた。兄はロシアの古典を読み、自分でも書くよう弟に勧め、1920年まで最も近い友人であり師であり続けた。1870年代の終わりには、父の賭け癖のために一家は財産の多くを失った。1881年にエレツの公立学校へ送られたが、家計の苦しさからクリスマス休暇のあとに戻れず、1886年3月に除籍され、課程を終えられなかった。
1887年5月、ペテルブルクの文芸誌『ロージナ』に最初の詩「村の貧民たち」を発表した。ごく若くして詩人としてデビューしたことになる。1889年春には兄を追ってハリコフに移り、官吏、地方紙の編集補佐、図書館司書などの職に就きながら、短編小説を発表した。1891年には最初の短編「田舎のスケッチ」が雑誌『ルースコエ・ボガートストヴォ』に載った。やがてアントン・チェーホフ、レフ・トルストイ、マクシム・ゴーリキーらの知遇を得た。翻訳家としても評価され、ロングフェローの詩の訳で1903年にプーシキン賞を受け、1909年にはアカデミー会員となった。長編でも名声が高まり、1912年から1914年までは、カプリ島にゴーリキーを訪ねて滞在した。『村』(1910年)や『乾いた谷』(1912年)で知られる。
革命後はオデッサに二年滞在したのち、フランスへ亡命した。亡命後もロシア語で書き続け、自伝的な長編『アルセーニエフの人生』や、1917年から1918年の日記をもとにした『呪われた日々』(1926年)、短編集『暗い並木道』(1946年)などを発表した。白系亡命者や欧州の批評家、多くの同業者から、トルストイやチェーホフが築いたロシア・リアリズムの正統な継承者として敬われた。1933年にロシア人作家として初めてノーベル文学賞を受けた。第二次世界大戦中はナチスに抵抗し、ユダヤ人を自宅にかくまったという。トルストイを尊敬する一方、ドストエフスキーは評価せず、仏教を研究して最古の仏典スッタニパータなどを座右の書とした。1953年11月8日に没した。2014年にはニキータ・ミハルコフが、短編「日射病」を映画化している。
同じ年に亡くなった人物
- ラチヤ・アチャリャン (1953年没)
- メアリー・アンダーソン (1953年没)
- ジョージ・バーンズ (撮影監督) (1953年没)
- エドウィン・ハッブル (1953年没)
- ジョージ・ヘンリー・ハミルトン・テイト (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・チュルミア (2016年没)
- イヴェット・コショワ (1999年没)
- アレクサンドル・ファルギエール (1900年没)
- マルセル・グリオール (1956年没)
- アンヌ・ド・バヴィエール (1723年没)