伝記
エドウィン・ハッブルは、1889年11月20日、ミズーリ州マーシュフィールドの保険会社役員の家に生まれたアメリカの天文学者である。銀河系の外にも銀河が存在すること、そしてそれらの銀河の光が宇宙の膨張に伴って赤方偏移していることを明らかにし、現代の宇宙論の基礎を築いた。幼い頃にイリノイ州ウィートンへ移り、若い頃は学問よりもスポーツの才能で知られていた。1906年の高校の陸上競技大会では7種目で1位、1種目で3位となり、走り高跳びではイリノイ州の記録も作った。野球やフットボール、バスケットボールもこなし、シカゴ大学のバスケットボール部を率いて、同大学として初のビッグ・テン優勝に導いたという。
シカゴ大学では、のちにノーベル賞を受ける物理学者ロバート・ミリカンらの影響を受け、数学と天文学を中心に学んで1910年に卒業した。大学ではヘビー級のボクサーとしても知られ、あるプロモーターは世界王者ジャック・ジョンソンとの対戦を勧めたほどだった。続く3年間は、初代のローズ奨学生の一人としてオックスフォード大学で法学を学び、修士号を得た。法学を選んだのは死の床にある父との約束によるもので、天文学への関心は少年期から強かったという。父は1913年の冬、彼が英国にいる間に亡くなった。帰国後は法律の仕事に気が乗らず、インディアナ州の高校で教え、バスケットボール部のコーチも務めた。その後、恩師の助けで天文学の大学院に進み、ヤーキス天文台で研究に戻って、博士号を取得した。
第一次世界大戦が始まると軍隊に入り、間もなく少佐となった。戦後の1919年、ジョージ・ヘールからウィルソン山天文台の職員の職を紹介され、その後の一生をこの天文台で過ごした。同年には口径100インチのフッカー望遠鏡が完成していた。1923年から1924年にこの望遠鏡で行った観測により、それまで銀河系内の天体と考えられていた「星雲」の中に、銀河系の外の銀河が含まれていることがはっきりし、彼は1924年12月30日の論文でこれを発表した。銀河を形状などで分類する方法も考案し、これはハッブル分類として今も使われている。
1929年には、ミルトン・ヒューメイソンとともに、セファイド変光星の明るさと変光周期の関係を使って、銀河の赤方偏移と距離との間の経験則を定式化した。2つの銀河が離れるほど、互いに遠ざかる速度も距離に比例して大きくなるというもので、今日ハッブルの法則と呼ばれる。ただしセファイド変光星の型を区別していなかったため、算出したハッブル定数は、今日の値の約7倍にあたるものだった。この発見は、のちのビッグバン理論につながった。
第二次世界大戦中も陸軍に入り、1946年には弾道学の研究での貢献によりメリット勲章を授与された。1949年、パロマー天文台の200インチのヘール望遠鏡が完成すると、その最初の利用者となった。1935年には小惑星シンシナティを発見し、1938年にブルース・メダル、1940年に王立天文学会ゴールドメダルを受けた。ノーベル賞は受けていない。1953年9月28日、心不全のためカリフォルニア州サンマリノで没した。妻グレースは葬儀を行わず、埋葬先も明かさなかったため、現在も遺体の所在は不明である。
同じ年に亡くなった人物
- セシル・ヘプワース (1953年没)
- タツィオ・ヌヴォラーリ (1953年没)
- ナイジェル・ブルース (1953年没)
- 近藤信竹 (1953年没)
- フローレンス・プライス (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- レスター・アラン・ペルトン (1908年没)
- サム・ボトムズ (2008年没)
- ディック・ヴァン・パタン (2015年没)
- Rod Roddy (2003年没)
- コリンヌ・グリフィス (1979年没)