HISTORICAL PERSON · 1381年没

タデア・ヴィスコンティ

ミラノ僭主ベルナボ・ヴィスコンティの娘。巨額の持参金でバイエルン公シュテファン3世に嫁ぎ、後のフランス王妃イザボーの母となった。

生涯
1381年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ミュンヘン)
出生地
イタリア共和国(ミラノ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

タデア・ヴィスコンティは、1352年ごろに生まれた、ミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティの娘である。母はレジーナ・デッラ・スカラで、2人の間の15人の子のなかでは年長だったと考えられている。姉妹には、オーストリア公レオポルト3世の妃となったヴィリディスや、キプロス王ピエール2世の妃となったヴァレンティーナらがいる。のちにバイエルン公シュテファン3世に嫁ぎ、フランス王シャルル6世の妃となったイザボー・ド・バヴィエールの母となった。

1365年、父ベルナボは、バイエルン公爵家と同盟を結ぶために、公爵家と自分の家族との間で二重の縁組を行うことにした。8月12日、タデアとシュテファン3世、タデアの弟でパルマ領主のマルコとバイエルン公爵家のエリーザベトの、2組の婚約が成立した。両家はさらに交渉を続け、1366年と1367年にも同盟に関する新たな書状が作られた。1366年10月にはバイエルン側からゲルツ伯が仲人役としてミラノの宮廷に遣わされ、正式な結婚の申し込みを行った。翌11月、ベルナボは全権を委任した返礼の使節をバイエルンに送り、使節は二重の縁組についてハプスブルク家の承認も取り付けた。1367年4月、ミラノでタデアの持参金が渡され、その額は10万グルデンという巨額に上った。バイエルン公爵家がエリーザベトのために用意できた持参金は4万5000グルデンだったので、バイエルン側は差し引きで5万5000グルデンの利益を得たことになる。シュテファン3世はこの持参金をすべて、自分の領地での建築事業の資金に投じた。婚礼は1367年に行われ、10月13日であったとも伝えられる。

結婚後、タデアは夫シュテファン3世とともに、ミュンヘン、ランツフート、ブルクハウゼン、インゴルシュタットにあるバイエルン公爵家の居館を転々として暮らした。1368年にはルートヴィヒ7世が、1370年にはイザボーが生まれた。夫は1375年にバイエルン=インゴルシュタット公となった。1376年9月29日、タデアは夫と、その弟で1374年からシュヴァーベンの帝国地方総督を務めていたフリードリヒ公とともに、アウクスブルクに滞在していた。タデアと姑のマルガレーテ・フォン・ツォレルンは、アウクスブルク市から大量のワイン樽を贈られ、そのお返しとして、この日の夜に公爵家主催の舞踏会を催した。1380年、長く不在にしていたミュンヘンに帰還すると、公爵夫人タデアは市民から10ポンドもの重さの金を贈られた。翌1381年9月28日、29歳か30歳ほどで世を去った。

遺体はミュンヘンに葬られた可能性があるが、墓はいまだに見つかっていない。父ベルナボは1385年に甥のジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティに廃されて幽閉され、獄中で毒殺されたと伝えられる。ルートヴィヒ7世とイザボーは、どちらも母の思い出を大切にしていた。ルートヴィヒ7世は、人々が母を憶えておけるよう、祈りの対象者の1番目に母を据え、イザボーはパリでの宗教記念日の祈りに、夫シャルル6世の両親や祖父母とともに母タデアを加えた。バイエルン州立図書館にある14世紀の装飾付きの時祷書には、ヴィッテルスバッハ家とヴィスコンティ家の紋章が組み合わさって描かれ、タデアを仲立ちとした両家の結びつきを今に伝えている。

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