伝記
シャルル・モーラスは、1868年4月20日に南仏のマルティーグで生まれ、1952年11月16日にトゥールで没したフランスの文芸評論家、作家、詩人である。正式な名はシャルル=マリー=フォティウス・モーラスといい、王党派右翼の政治運動アクション・フランセーズの中心的な思想家として活動した。
中流のブルジョア家庭に生まれ、母と祖母のもとで、カトリックと王党派の気風のなかで育てられた。14歳のころ難聴を患い、発声の力も衰えたため、海軍兵学校への入学を断念せざるをえなかった。若いころにカトリックの信仰を失って不可知論者となったが、政治的な理由からカトリック教会を支持する立場はのちも保った。17歳でパリに出て、文芸誌や政治紙に寄稿を重ねるかたわら、大学や図書館に通い、オーギュスト・コントの実証主義に傾倒した。1888年には、プロヴァンスの詩人フレデリック・ミストラルと知り合い、その連邦主義の考えに共感した。文芸の面では古典主義を称え、ロマン主義を攻撃した。
ドレフュス事件の際には王党派新聞の記者で、ユダヤ人のドレフュスは国外へ追放すべきだと主張し、紙上で激しい反ユダヤ主義の論陣を張った。1899年、前年にアンリ・ヴォジョアとモーリス・ピュジョが結成したアクション・フランセーズに加わり、1905年には同名の機関紙を創刊した。オルレアン家の復活、反ユダヤ主義、対ドイツ強硬論を説く一方、プルードンやジョルジュ・ソレルのような直接行動を重んじる運動からも影響を受けた。1926年にはローマ教皇ピウス11世がアクション・フランセーズを断罪し、翌年にはモーラスの著作が禁書目録に入れられて、同派の会員は秘跡を受けることを禁じられたが、この禁令は1939年にピウス12世によって解かれた。
第一次世界大戦が始まると、会員を召集して共和制打倒の運動を一時止めさせ、対独戦争への協力を指示した。戦後はフランスの犠牲に見合う賠償とドイツの解体を要求し、民族自決の原則や、無賠償・無併合の講和には徹底して反対した。ソビエト連邦を脅威とみる一方、イタリアを重要な同盟国と考え、ムッソリーニのファシスト政権を支持した。1934年2月6日の危機では、他の右翼団体と連携して共和制の打倒寸前まで進んだが失敗し、人民戦線内閣のもとでアクション・フランセーズは地下活動を余儀なくされた。1936年には襲撃を受けて負傷し、また同年、社会党のレオン・ブルムへの殺害の脅しで八か月の禁固刑を受けた。1938年にアカデミー・フランセーズの会員となった。スペイン内戦では反共和国側のフランコを支持した。ナチスの反ユダヤ主義には一定の評価を与えつつも、ドイツがフランスへの敵愾心をあおっているとみて、早くから警戒した。
第二次世界大戦でフランスがドイツの占領下に置かれると、パリを離れてリヨンに移り、「フランスあるのみ」の考えからペタンのヴィシー政権に協力した。「アクション・フランセーズ」紙はリヨンで刊行が続けられ、レジスタンスをテロリストとして激しく非難し、ド・ゴール率いる自由フランスも批判した。1944年9月の解放とともに対独協力者として逮捕され、翌年にはアカデミーからも追放された。裁判で終身禁固刑の判決を受けたとき、「ドレフュスの復讐だ」と叫んだという。獄中でも執筆を続けたが、健康を害して1952年に治療のための恩赦を受け、トゥールの病院で亡くなった。臨終の際にカトリックの洗礼を受け、終油の儀式も受けたとされる。反近代主義の代表的な存在として、T・S・エリオットやT・E・ヒュームらに影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ (1952年没)
- 岡田啓介 (1952年没)
- ロバート・ポーター・パターソン (1952年没)
- レスリー・バンクス (1952年没)
- ヴィルム・ホーゼンフェルト (1952年没)
同じ地域に関係する人物
- ノエル・オディンガ (2007年没)
- シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公) (1465年没)
- ユーディト・フォン・アルトドルフ (843年没)
- トゥールのグレゴリウス (594年没)
- フェデリーコ1世 (ナポリ王) (1504年没)