HISTORICAL PERSON · 1375年没

劉基

元末明初の軍師・政治家・詩人。朱元璋に仕えて陳友諒を先に討つよう進言するなど明の建国に大きな功績を上げ、成立後は綱紀粛正に努めた。『郁離子』を著し、中国では諸葛亮と並び称される。

生涯
1375年没
死亡地
中華人民共和国(浙江省)
出生地
中華人民共和国(温州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(浙江省)

伝記

劉基(りゅう き)は、元末から明初の中国の軍人、政治家、詩人であり、軍師である。字は伯温、諡は文成という。1311年7月1日(至大4年6月15日)に、浙江省処州路の青田県南田で生まれた。出身地にちなんで劉青田とも呼ばれる。のちに朱元璋に仕えて明の建国に大きな功績を上げ、中国では魔術師のような軍師として崇められ、三国時代の諸葛亮と並び称される。

劉基は元末の科挙に合格して進士となり、行省元帥府都事を務めた。元の朝廷に約25年にわたって仕え、清廉で正直という評判を得て、すぐれた学者であり戦略家としても知られた。1348年には軍の職に任じられ、南方の反乱の鎮圧にあたった。反乱の首領が助かろうと賄賂を差し出すと、劉基はこれを断った。首領は北京へ行って賄賂で朝廷に取り入ることに成功し、官職と俸禄を得た。上司である処州守将の石抹宜孫と衝突して辞任し、故郷に隠れ住んだともいう。その後も劉基と元の政府との関係は悪くなり、1349年と1352年に辞職を願い、1358年には降格されて、ついに官を去って故郷に引きこもった。1360年、元に抗して広く蜂起した勢力の長となっていた朱元璋に引き合わされた。

朱元璋が南京を落として呉国公となり、各地の知識人を幕下に招いたなかに、劉基もいた。以後、劉基は朱元璋の軍師として活躍した。紅巾軍の名目上の首領であった韓林児に対しては、「牧童にすぎない。こんな者を奉じてどうなる」と大喝したという。朱元璋が、武昌の陳友諒を措いて、隆平府の張士誠を討とうとしたときには、先に陳友諒を討つべきだと進言した。朱元璋はこれを厚く信頼し、劉基を「我が子房(張良)」と呼んだという。劉基は行政にも携わるとともに、陸でも水でも指揮官として多くの戦いに加わった。初期の明の水軍を率い、浙江全域を元から奪う作戦を任された。ほかの中国の反乱勢力や倭寇との戦いにも責任を負った。この時期に、『百戦奇略』と『時務十八策』を著したとされる。のちには、徐達、鄧愈、常遇春らの有能な将軍が加わり、劉基は主に戦略の助言を求められた。

1368年、朱元璋が中国を統一し、明を建てた。劉基は太史令から御史中丞となり、主に綱紀の粛正に取り組んだが、そのために李善長や胡惟庸ら、ほかの家臣の恨みを買った。朱元璋の耳には劉基への讒言が入ったが、劉基は公正であり続け、李善長が罪に問われたときにはかばいもした。1375年、劉基は胡惟庸を高い官職に就けることに反対した。胡惟庸はのちに朱元璋に拝謁し、劉基が自分の勢力を築こうとしていると讒言した。朱元璋が疑いを信じて、劉基は官を辞めさせられ、胡惟庸が昇進した。猜疑心が強かった朱元璋も、劉基への讒言には「あの者が取って代わる気なら、建国以前にその機会はいくらでもあった」と取り合わなかったという。それでも讒言が続いたため、劉基は疑いを避けて南京にとどまった。

洪武8年(1375年)の1月の末、劉基は風邪をひいた。朱元璋は胡惟庸に命じて、劉基のために宮廷の医者を探させたが、劉基はその薬を飲んだあと、胃の中で不揃いな石が押し合うような痛みを感じ、さらに苦しくなった。このことを朱元璋に伝えても、ただ慰めの言葉をかけられただけで、劉基は気落ちしたという。劉基は洪武8年4月16日(1375年5月16日)に亡くなった。死因は、現代の研究者のあいだでもはっきりしない。死後、胡惟庸に劉基を毒殺したとの疑いがかけられ、これが、胡惟庸の獄と呼ばれる大粛清が始まるきっかけとなった。

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