伝記
ハイム・アズリエル・ヴァイツマンは、1874年11月27日、当時ロシア帝国領だった小さな村モトル(現在のベラルーシのモタリ)に、ユダヤ人の家庭の十五人の子の三番目として生まれた。父オイゼルは材木商である。四歳から十一歳まで伝統的な宗教学校に通ってヘブライ語を学び、十一歳でピンスクの中等学校に進むと、化学に才能を見せた。同じ頃にはシオンを愛する者たちの運動にも加わっており、1892年に優秀な成績で卒業した。
その年ドイツのダルムシュタットの工科大学で化学を学び始め、生活のために正統派の寄宿学校でヘブライ語を教えた。1894年にベルリンへ移ると、シオニストの知識人の輪に加わった。1897年にはスイスへ渡り、1899年にフリブール大学の有機化学の博士課程を修了した。1901年から1903年までジュネーヴ大学で化学を教え、スイス時代に未来の妻ヴェラと出会っている。1903年には実践的シオニズムを主張した。1904年にイギリスへ移住してマンチェスター大学で化学を教えるかたわら、シオニスト評議会の議長に就き、1906年にヴェラと結婚した。1907年にパレスチナを訪れて移民の状況を見ると、ユダヤ人国家の建設には政治的解決と植民の両方が必要だと確信し、この考えは綜合シオニズムと呼ばれた。
化学者としては、砂糖にバクテリアを作用させて合成ゴムを得ようとしたが、ゴムの合成には失敗した。その研究の副産物として、1910年ごろ、クロストリジウム・アセトブチリクムという細菌を使い、デンプンからアセトンを得る発酵法を開発した。第一次世界大戦が始まると、この方法がコルダイト火薬の原料となるアセトンの安定供給に不可欠となり、その工業化に成功したことでイギリス政府内の評価が高まった。同時に、ハーバート・サミュエル、アーサー・バルフォア、のちの首相ロイド・ジョージらと会って、シオニズムへの理解を広げていった。1917年11月2日にはバルフォア宣言が出され、イギリスがパレスチナでのユダヤ民族郷土の建設を約束した。1919年、パリ講和会議でファイサル1世との間にファイサル・ヴァイツマン合意を結び、互いの民族国家建設のために協力すると約束した。
1921年にシオニスト機構の代表となり、アインシュタインとともにアメリカで資金集めの運動を行った。1925年にはアインシュタインやバルフォアとともに、エルサレムのスコプス山にヘブライ大学を創設している。1929年にはユダヤ機関を設立した。1931年にいったん代表を退いて研究生活に戻り、1934年にレホヴォトでダニエル・シーフ研究所(のちのヴァイツマン科学研究所)を設立した。1935年に代表へ復職し、1946年まで務めた。第二次世界大戦では、イギリスの軍需省の名誉顧問として合成ゴムとハイオクガソリンを研究した。息子の一人、空軍のパイロットだったマイケルは、1942年2月にビスケー湾上空で撃墜されて行方不明になった。
1947年、国連のパレスチナ分割案をめぐり、ネゲブをイスラエルに含めるよう主張し、トルーマン大統領と会見して支援を取り付けた。イスラエルの建国後、初代大統領に就いたが、この職は名誉職の性格が濃く、実務はおもに首相が担った。在職中の1952年11月9日に死去し、遺体は自身の希望でレホヴォトの自宅の庭に埋葬された。甥のエゼル・ヴァイツマンは、のちに第7代イスラエル大統領を務めている。
同じ年に亡くなった人物
- ドン・スティーヴン・セーナーナーヤカ (1952年没)
- グレゴリー・ラ・カヴァ (1952年没)
- ルイーゼ・ゾフィー・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク (1952年没)
- ジェイムズ・リー・ピーターズ (1952年没)
- マリーズ・バスティエ (1952年没)
同じ地域に関係する人物
- S. Yizhar (2006年没)
- エティエンヌ2世 (ブロワ伯) (1102年没)
- イベリアのペトル (491年没)
- イツィク・マンゲル (1969年没)
- モーシェ・アレンス (2019年没)