伝記
デイヴィッド2世は、一三二四年三月五日にダンファームリンの宮殿で生まれ、一三七一年二月二十二日にエディンバラで没した、スコットランド王である。在位は一三二九年から一三七一年に及ぶ。父はロバート1世、母は二番目の妃エリザベス・ド・バーグである。双子の兄として生まれたらしく、弟のジョンは幼くして亡くなったとみられる。一三二八年のエディンバラ=ノーサンプトン条約でスコットランドの独立と王の地位が認められ、これに従って、同年七月十七日にベリクで、イングランド王エドワード2世の娘ジョーンと結婚した。彼は四歳、ジョーンは七歳であった。
一三二九年、父の死によって、わずか五歳で王位を継いだ。教皇の勅書により、スコットランド王として初めて塗油を受け、スクーンで戴冠した。幼い王に代わって、守護官と呼ばれる摂政が国を治めた。ところが、所領を失っていたベイリャル派の貴族が、ジョン・ベイリャルの長男エドワードを担いで、一三三二年八月に反乱を起こした。イングランド王エドワード3世の支援を受けた反乱軍はダプリン・ムーアの戦いで王軍を破り、エドワード・ベイリャルが王として戴冠した。彼はイングランド王に臣従を誓い、南部五州を割譲した。これに怒ったアーチボルト・ダグラスが同年十二月に反乱を起こし、アナンで彼を破って、イングランドへ逃走させた。しかし翌年、アーチボルトはハリダン・ヒルの戦いでエドワード3世に敗れて戦死した。
これを受けて、デイヴィッド2世は一三三四年に王妃とともにフランスに逃れた。フランスでは丁重に迎えられ、ノルマンディーのガイヤール城を住居として与えられた。一三三七年に百年戦争が始まると、当初はフランス王フィリップ6世に従って北フランスに従軍した。その間、スコットランドでは彼を支持するブルース派の貴族が勢力を挽回しており、一三四一年、フィリップ6世はイングランドを北から牽制するため、彼を帰国させた。帰国したときは十七歳で、国は侵略と戦乱で荒れていたが、彼は政府の仕組みを再び動かし始めた。
一三四六年十月、古くからのフランスとの同盟に従ってイングランドへ侵攻したが、ネヴィルズ・クロスの戦いで大敗し、捕らえられた。以後十一年、ロンドンやハンプシャーで捕囚として暮らしたが、妻がエドワード3世の妹で、自身もイングランド王家の血を引くため厚遇され、生活は比較的自由で快適だったという。一三五七年十月、十万マークを十年の分割で払う身代金で釈放された。しかし、貧しいスコットランドに負担は重く、彼もイングランドでの気ままな暮らしを懐かしんだとされ、身代金の代わりに王位をエドワード3世またはその子に譲るという密約を交わし、一三六七年にイングランドへ戻った。スコットランド議会は、アーブロース宣言に従ってエドワード3世の息子ライオネルの王位継承を否定し、身代金を払い続けることで対抗した。
一三七一年、彼はエディンバラ城で亡くなった。最初の妃ジョーンとは一三六二年に死別し、一三六四年二月二十日に再婚した二番目の妃マーガレット・ドラモンドとの間にも、子はなかった。摂政として実質的に国を治めていた甥のロバート・ステュアートが、ロバート2世として王位に就き、ステュアート朝を開いた。
同じ年に亡くなった人物
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