伝記
シメオン・ウロシュ・パレオロゴスは、イピロス専制公、のちにセサリア(テッサリア)の「皇帝」となった人物で、セルビア語ではシニシャとも呼ばれる。セルビア王ステファン・ウロシュ3世デチャンスキと、2番目の妻マリヤ・パレオロギナの間に生まれた。母マリヤは東ローマ皇帝アンドロニコス2世の弟コンスタンディノスの孫娘で、シメオンは母方でミハイル8世パレオロゴスの玄孫にあたる。生年は不明だが、母が父に嫁いだのは1325年ごろと考えられ、父が没する1331年前後までの間に生まれたと思われる。
1337年、東ローマ帝国がイピロス専制公国の併合を始めたのちに、皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスとドゥシャンの間で、故専制公ジョヴァンニ2世オルシーニの娘ソマイスとシメオンの結婚が取り決められたようである。当時のシメオンは若かった。ドゥシャンがマケドニア地方を征服し、スコピエで「皇帝」として戴冠した1346年に、専制公に叙せられた。ドゥシャンがイピロスとセサリアの征服を終えた1350年ごろ、正式にソマイスと結婚し、イピロス地方の統治官として赴任した。隣のセサリアには、ドゥシャンの娘婿グルグル・プレリュブが「副帝」の称号を得て治めていた。
1355年に兄のドゥシャンとプレリュブが相次いで死ぬと、セルビア本国と、イピロスおよびセサリアの政治に空白が生じた。シメオンは、帝位の継承とイピロス・セサリアの統合という2つの野望を追ったが、翌1356年、東ローマ帝国から突然戻ってきた妻ソマイスの兄弟ニキフォロス2世に攻められ、マケドニア地方のカストリアへ追われた。シメオンはイピロスをあきらめて帝位に狙いを絞り、兄の遺児ステファン・ウロシュ5世と争ったが、優位に立てないでいるうちに、1359年にニキフォロス2世の訃報が届いた。そこで目標をイピロス・セサリアの掌握に戻して成功し、拠点をセサリアのトリカラに定めて宮廷を築き、ウロシュ5世に対抗して自ら「皇帝」として戴冠した。
この地域ではセルビア人が少数派で、統治機構も未熟であり、広い領域を長く組織的に支配することは不可能だった。シメオンは、イピロスとセサリアの一人支配を早々に断念し、アルバニア人の勢力が強いイピロス南部をアカルナニアとエトリアに分けて、2人の族長に専制公の称号とともに与えた。2人は皇帝の臣下となったが、その関係はほぼ名目的で、イピロスとセサリアは実質的に分断され、イピロスそのものも三分された。南部に定着したアルバニア人が再び北へ広がろうとしたため、シメオンはプレリュブの遺児トマ・プレリュボヴィチを招き、娘マリアと結婚させて専制公の称号を与え、1367年にヨアニナの支配者とした。プレリュボヴィチもこの地で実質的に独立し、シメオンの手元にはセサリアと皇帝の称号だけが残った。
シメオンは1371年12月4日に没した。ライバルだった甥のウロシュ5世とまったく同じ日の死で、シメオンが死んだトリカラと、ウロシュ5世が死んだスコピエは数百キロメートル離れている。この日がネマニッチ朝の事実上の断絶と滅亡の日となった。ソマイスとの間には2人の息子と1人の娘が生まれた。長男ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴスは父の跡を継いで皇帝となったが、間もなく修道士となってメテオラ修道院に隠退した。次男ステファン・ドゥカス・チェルノイは、兄のもとでセサリアの都市ファルサロスの領主となった。娘マリア・ドゥケナ・アンゲリナ・パレオロギナはトマ・プレリュボヴィチの妻となったが、夫の死後に再婚し、再婚相手にイピロス専制公の位を伝えた。
同じ年に亡くなった人物
- レイナウト3世 (ゲルデルン公) (1371年)
- ヴカシン・ムルニャヴチェヴィチ (セルビア王) (1371年没)
- イヴァン・アレクサンダル (1371年没)
- ヨヴァン・ウグリェシャ (1371年)
- ジャンヌ・デヴルー (1371年没)
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