伝記
トゴン・テムルは、1320年に生まれ、1370年に没したモンゴル帝国の第15代カアン、元としては第11代の皇帝である。廟号は恵宗だが、明が追諡した順帝の名で呼ばれることが多い。父は明宗コシラ、母は中央アジアのカルルク系の族長の家の出で、父が暗殺を逃れてチャガタイ・ハン国に滞在していたときに、長男として生まれた。1328年に泰定帝が亡くなって内乱が起こると、父とともに上都へ帰った。ところが明宗が急死し、その弟が文宗として即位すると、トゴン・テムルは宮廷から遠ざけられ、はじめ高麗の大青島に、次いで広西の静江府に流された。
1332年に文宗が亡くなると、皇后ブダシリが遺志に従い、明宗の遺児を立てることを提案した。まず弟のリンチンバルが即位したが2か月で亡くなり、実権を握るエル・テムルは文宗の次男の擁立を図った。しかしブダシリがその幼さを理由にトゴン・テムルを推挙し、彼は広西から呼び戻された。エル・テムルには明宗を毒殺したとの説もあり、即位は半年ほど延ばされたが、1333年にエル・テムルが病死し、6月8日に13歳で即位した。従弟のエル・テグスを皇太子に立て、ブダシリが後見人となったが、軍閥が政権を握る状態は続き、バヤンが中書右丞相として強い影響力をもった。同じ1333年に、高麗出身の女性奇氏に出会い、妨げられながらも、1339年に彼女が男子を産んだ翌年に次妃とした。
20歳を過ぎたころからバヤンの専横に反発し、1340年に、バヤンと対立していた甥のトクトと組んで政変を起こし、バヤンを追放した。ブダシリとエル・テグスも宮廷を去らされた。トクトのもとで科挙が復活し、1341年には至正と改元された。1347年にはトクトと父マジャルタイを寧州に追放したが、1349年にトクトを政権に復帰させた。そのころ地方では天災と疫病が相次ぎ、1348年に塩の専売を厳しくすると、反対する密売商人を中心に蜂起が起こり、1351年には紅巾の乱が全土に広がった。1353年には奇氏の子アユルシリダラが皇太子となった。1354年、鎮圧に出るトクトが強大な軍事力を握ることを恐れてトクトを解任し、また追放した。これで軍事力は地方の軍閥に頼るものとなった。
その後は朝政への関心を失い、広西の配所で『論語』を学んだこともあって詩文や書画をたしなむ一方、チベット仏教の秘儀にもふけるようになった。成人したアユルシリダラは母の奇皇后の支援で政権の奪取をはかり、側近たちと対立した。トゴン・テムルは調停できず、1364年に山西の軍閥ボロト・テムルが大都を占拠して皇太子を追い、翌年にはココ・テムルが皇太子と協力してボロト・テムルを滅ぼした。この内紛で朝廷の力はほとんど壊滅した。
1368年、朱元璋の北伐軍に敗れ、トゴン・テムルは大都を放棄して上都へ逃れた。翌1369年に上都も明軍に落とされ、さらに北の応昌府に移り、1370年にそこで亡くなった。皇太子アユルシリダラが即位した。明は大都の放棄をもって元は天命を失ったとみて、順皇帝と追諡した。一方、モンゴル側ではそれ以降も大元を称した。この後の元は、明の史観にもとづいて北元と呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・シャーティル (1370年代没)
- 施耐庵 (1370年没)
- ジョヴァンニ・ダ・ミラノ (1370年)
- グアリエント・ディ・アルポ (1370年)
- ウルバヌス5世 (ローマ教皇) (1370年没)