伝記
施耐庵(し たいあん)は、四大奇書のひとつである『水滸伝』の作者とされる人物である。元貞2年(1296年)に生まれ、洪武3年(1370年)に没したという(1372年没とする記述もある)。元末から明初にかけての人とみられるが、『水滸伝』の作者として名が見えるだけで、経歴はよくわかっていない。実在したかどうかさえ定かではない。明末から清初の学者たちは元の末の人で杭州の出身と説き、『七修類稿』や『百川書志』などは銭塘の人としているが、これらは互いの説をなぞったか、自分たちが支持しない推測を引いたものかもしれないとされる。伝統的には、『三国志演義』の編者または作者である羅貫中の師だったと信じられてきた。
『興化県続志』には施耐庵伝と、明初の王道生による『施耐庵墓志』が載っている。その『墓志』によれば、名は彦端、号は子安、あるいは耐庵といい、平江路呉県の出身で、本籍は泰州海陵県であった。至順2年(1331年)に進士となって官途についたが、至正13年(1353年)に元末の反乱軍の首領、張士誠に見込まれて参謀となった。多くの策を上申したものの、張の勢力が大きくなると、張が驕って人の言うことを聞かなくなったため、官を棄てて郷里に帰り、医師や教師をして暮らした。張が滅びたのち、明を建てた朱元璋が張の残党を厳しく追及したため、施耐庵は隠居した。『水滸伝』のもとになった『江湖豪客伝』や『三国志演義』、『平妖伝』などを書き、門人の羅貫中に校正させたという。『三国志演義』の著者を施耐庵とする説は、この『墓志』によるものである。
しかし、中国文学者の高島俊男は、この『墓志』を信頼できないものとして厳しく批判している。高島によれば、民国17年に胡瑞亭という人物が施耐庵の素性がわかったと主張し、その証拠として持ち出したのがこの『墓志』であった。突然に見つかったうえ、当時農民反乱の指導者として人気のあった張士誠の参謀だったというこじつけもあることから、学界で強く批判され、まったくの偽書として顧みない研究者もいるという。
第二次世界大戦の直後、江蘇省興化県で施耐庵の名を記した碑が見つかり、1950年代の初めに調査団が送られたが、主任の調査者は「施耐庵のかすかな痕跡すら見つからなかった」と述べた。20世紀の後半になると、興化市に施耐庵が住んでいたとして、『施氏族譜』『施氏長門譜』などの家譜が次々と見つかり、詳しい伝記が伝えられたが、その信憑性も強く疑われている。魯迅は、施耐庵という名は後の版の編者がつくったものかもしれないと考えた。呉梅らは施耐庵を施恵と同一視しようとしたが、あまり支持されていない。戴不凡は、施耐庵は実在せず、名は郭勲の庇護のもとで編集にあたった無名の人物の筆名かもしれないと説く。施耐庵文学賞は彼にちなんで名づけられている。
同じ年に亡くなった人物
- 奇皇后 (1370年(推定))
- Taj al-Din al-Subki (1370年)
- カジミェシュ3世 (ポーランド王) (1370年没)
- ジョヴァンニ・ダ・ミラノ (1370年)
- ルドルフ2世 (ザクセン選帝侯) (1370年没)
同じ地域に関係する人物
- 楊慎 (1559年没)
- 蔣琬 (246年没)
- 岑参 (770年没)
- ジョルジ・アルヴァレス (1521年没)
- 徐宏祖 (1641年没)