伝記
ニコラエ・アレクサンドルは、ルーマニア南部のワラキアの公である。生年ははっきりせず、有力な説では14世紀の初めごろに生まれたとされる。父はワラキアの初代の公バサラブ1世で、彼はその跡を継いだ。1344年から父とともに公国を治め、父が1351年か1352年に死ぬと単独で統治し、1364年まで在位した。二重の名は、最初はカトリックの洗礼を受けてアレクサンドルと名づけられ、のちに正教の儀礼でニコラエと改められたことを示すらしい。最初の妻はトランシルヴァニアのラッカーフィ家のマリアで、1344年には、ハンガリー出身でカトリックのクララ・ドボカイと再婚した。
即位したころ、彼はハンガリー王国の臣下になれという圧力に抵抗していた。しかし1354年、ハンガリー王ラヨシュ1世の宗主権を受け入れ、公国内でのカトリック教会の宣教の権利を認めた。この屈服は、ジョチ・ウルスの脅威があったためともいわれる。1355年にはセヴェリンをめぐってハンガリー王と合意し、同じ年に娘のエリザベータが、オポーレ公ヴワディスワフ2世に嫁いでいる。
1358年6月28日には、ブラショヴのトランシルヴァニア・ザクセン人商人に、通行料を払わずにワラキアを通る特権を与えた。1359年にはコンスタンティノープル総主教カリストス1世の承認を受け、クルテア・デ・アルジェシュにウングロ・ワラキア府主教座が設けられた。ワラキアで初めての正教の府主教座で、最初の府主教はヴィチナのヤキントである。この年、ハンガリーの宗主権を拒んだともいわれるが、治世の終わりまでハンガリー王との関係は良くならなかったようである。彼はバサラブの遺言に従って教会を建て、クルテア・デ・アルジェシュの公の教会が造られ、クンプルングの僧院が増築された。アトス山の修道院にも寄付をした。
姻戚関係はブルガリアのヴィディンの僭主イヴァン・スラツィミル、セルビア帝国のステファン・ウロシュ5世とのあいだに築いた。イヴァン・スラツィミルに嫁いだ娘アンナは、ボスニアの王女ドロテアの母となった。ほかに息子にヴォイスラフ、ラドゥがいる。1364年11月16日に彼は没し、父と自分が建てたクンプルングの教会に葬られた。公位は息子のヴラディスラフ1世が継ぎ、のちに弟のラドゥが跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル・ド・ブロワ (1364年没)
- ロンチェン・ラプジャムパ (1364年)
- ヴァルデマー3世 (デンマーク王) (1364年没)
- ロベルト (ターラント公) (1364年没)
- プトゥン (1364年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。