伝記
ガジャ・マダは、14世紀のジャワ島にあったマジャパヒト朝で宰相を務めた人物である。生年は1290年ごろとされ、没年は1364年ごろとされる。ジルノダラの名でも知られる。初めは禁軍の一将校にすぎなかったが、1319年に当時のジャヤナガラ王の危機を救ったことから、地方の知事に抜擢されて治績を挙げた。1331年にサデン人の反乱を鎮めたのをきっかけに中央へ召され、宰相に就いた。当時の王位には、ジャヤナガラの従兄弟にあたる女王トリブワナーがあったが、その母のラージャパトニが即位していたという説もある。1350年にトリブワナーの子ハヤム・ウルクが即位したが、若かったため、ガジャ・マダが補佐して国政全般を指揮した。
軍人の出身であったガジャ・マダは、軍の指揮官としても才能を示した。1342年にバリ島を征服し、周辺の地域を次々と征服して、南海の諸王朝の歴史のなかで最大の版図を築いた。ハヤム・ウルク王を支えて王国の全盛期をもたらし、ヌサンタラの島々を統一した人物として知られる。伝説によれば、統一の目的を果たすまで休まないと誓った「パラパの誓い」を立てたともいわれる。その事績は、古いジャワ語の写本や詩、碑文のなかで高く称えられている。彼の時代には、ラーマーヤナやマハーバーラタなどのヒンドゥー教の叙事詩が、影絵芝居ワヤン・クリを通じて、ジャワの文化や世界観に根づいていった。現在のインドネシアでは名宰相の誉れが高く、国民的な英雄、愛国心と国の統一の象徴とされ、その名を冠したガジャ・マダ大学もある。
後世に広まった姿の多くは、ムハンマド・ヤミンが1945年に著した書物から来ている。ヤミンは1940年代、旧マジャパヒト王国の都の跡であるトロウランを訪れ、素焼きの断片のなかから、ずんぐりした顔に縮れ毛の男の顔をかたどった貯金箱を見つけた。これを統一者ガジャ・マダの顔と解釈し、画家ヘンク・ンガントゥンに絵を描かせて、書物の表紙に用いた。これには異論が多く、ガジャ・マダほどの人物の顔が貯金箱に表されるはずがないといわれ、ヒンドゥー教・仏教時代には国の指導者は彫像にされるのが普通で、侮辱にあたるという意見もある。その顔はヤミン自身の顔だと考える人さえいる。
インドネシア大学の考古学者アグス・アリス・ムナンダルは、別の姿を示した。ワヤンの影絵芝居では、ガジャ・マダは横に張った口ひげのビーマとして描かれたと解釈する。一般には、上半身は裸でサロンをまとい、短剣クリを武器にした姿で描かれるが、公の場の装いは違っていたかもしれず、キドゥン・スンダヤナでは、スンダの宰相が、金の浮き彫りの胸当てを着け、金を張った槍とダイヤモンドで飾った盾を持つ姿だったと語っている。ムナンダルによれば、ガジャ・マダは初めパンジ物語のブラジャナタの姿で、のちの時代にはビーマの姿で描かれた。名前の「ガジャ」は象、「マダ」は古いジャワ語で酔うことを意味する。象はインドラ神の乗り物とされ、ガネーシャとも結びつく。
同じ年に亡くなった人物
- ルートヴィヒ5世 (バイエルン公) (1361年没)
- マリア・デ・パディーリャ (1361年没)
- ジョヴァンニ・ドルフィン (1361年)
- ナースィル・ハサン (1361年没)
- ブランカ・デ・ボルボーン (1339-1361) (1361年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。