伝記
イスマーイール2世は、1339年10月4日に生まれた、ナスル朝グラナダ王国の第9代の君主である。1359年8月23日にスルタンに即位したが、在位は1年足らずで、1360年の6月24日もしくは7月13日に廃位され、処刑された。ナスル朝は、北のカスティーリャと南のマリーン朝に挟まれたイベリア半島最後のイスラーム国家だった。
父は先代のユースフ1世、母は内妻のマルヤムで、父の次男にあたる。内妻ブサイナの子である長男ムハンマドより9か月遅く生まれた。弟のカイスがいた。マルヤムはブサイナよりもスルタンに影響力があったとみられ、イスマーイールは父のお気に入りだった。侍従のアブー・ヌアイム・リドワーンが王子たちの教育を担い、以前はキリスト教徒だったリドワーンから、イスマーイールはギリシア語を学んだ。ナスル朝には継承順位の規則がなく、ユースフ1世は初めイスマーイールを後継者に指名していたが、死の数日前に長男のムハンマドへ改めた。1354年10月19日、ユースフ1世はグラナダの大モスクで礼拝中に暗殺された。宰相のイブン・アル=ハティーブはただちにムハンマドを次のスルタンと宣言し、マルヤムとイスマーイールを落胆させた。まだ若いムハンマド5世に代わり、後見役のリドワーンが政府と軍を握った。イスマーイールは母や兄弟姉妹とともに、アルハンブラ宮殿内の、スルタンの宮殿に近い邸宅で暮らした。移動は制限されたが、暮らしは快適だった。
1358年、ナスル朝はカスティーリャ王ペドロ1世とアラゴン王ペーラ4世の戦争に巻き込まれ、カスティーリャの要求を受けたムハンマド5世は参戦を決めた。これが宮廷に怒りを呼び、イスマーイールの擁立を促す一因となった。1359年8月23日、母マルヤムが資金を出し、再従兄弟で義理の兄弟でもあるエル・ベルメホが支えたクーデターが起こった。ラマダーンの夜、100人の男がアルハンブラ宮殿の城壁をよじ登って衛兵を倒し、リドワーンを殺してその財産を略奪した。ムハンマド5世は偶然宮殿の外にいたが奪還に失敗し、グアディクスへ逃れた。共謀者たちは邸宅にいたイスマーイールを見つけ出し、新しいスルタンと宣言した。しかし実権の大半をただちに握ったのはエル・ベルメホだった。ムハンマド5世はマリーン朝のスルタンの亡命の申し出を受け、1359年の10月28日か11月4日に、イブン・アル=ハティーブらを連れてマルベーリャから船出し、セウタを経てフェズへ向かった。
イスマーイールはムハンマド5世に忠実とみられた高官を多く更迭した。アラゴンに対するカスティーリャとの同盟も更新した。これに対しペーラ4世は、アラゴンで軍務に就いていたナスル朝出身の騎士たちを送り返し、統治を揺さぶろうとした。イブン・アル=ハティーブは著作で、イスマーイールを軟弱で怠惰で、腰まで伸ばした髪を絹で編む女々しい君主として描いたが、ムハンマド5世への忠誠からくる偏見の可能性が指摘されている。エル・ベルメホは、イスマーイールが反抗し始めるほど権力を固めていった。
1360年6月24日もしくは7月13日の夜、エル・ベルメホは先手を打って二度目のクーデターを起こした。包囲されたイスマーイールは、グラナダを見下ろす塔に立て籠もり、降伏を迫られて隠遁を申し出たが、地下牢へ連れて行かれて処刑された。まだ子供だった弟のカイスも、大臣たちも処刑された。遺体はぼろ布に覆われて公衆の面前に投げ捨てられたが、翌日に回収され、アルハンブラ宮殿の王室墓地に父ユースフ1世と並んで葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- エーリヒ1世 (ザクセン=ラウエンブルク公) (1360年没)
- ナウルーズ (ジョチ家) (1360年没)
- ダヴィト9世 (ジョージア王) (1360年)
- ジャンヌ1世 (オーヴェルニュ女伯) (1360年没)
- ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ (1360年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド8世 (1431年没)
- アロンソ・カーノ (1667年没)
- ナスル (ナスル朝) (1322年没)
- アルペトラギウス (1204年没)
- ムハンマド1世 (ナスル朝) (1273年没)