伝記
レオノール・デ・カスティーリャ・イ・ポルトゥガルは、1307年に生まれ、1359年にカスティーリャで殺害されたアラゴン王アルフォンソ4世の王妃である。カスティーリャ=レオン王フェルナンド4世と王妃コンスタンサ・デ・ポルトゥガルの長女で、父方の祖父母はサンチョ4世とマリア・デ・モリナ、母方の祖父母はポルトガル王ディニスとその王妃イザベルである。弟のアルフォンソ11世はカスティーリャ王となり、その子ペドロ1世がレオノールの甥にあたる。
4歳だった1311年、フェルナンド4世とアラゴン王ハイメ2世のカラタユー会談で、レオノールはハイメ2世の長男である王子ハイメと婚約した。この会談では同時に、ハイメ2世の娘マリア・デ・アラゴンとフェルナンド4世の弟である王子ペドロの結婚も行われた。1312年9月に父がハエンで、翌1313年には母がサアグンで亡くなり、レオノールは結婚までカスティーリャに残って弟の王アルフォンソ11世のもとで暮らした。ところが王子ハイメは修道院に入りたがり、教皇ヨハネス22世が婚約の約束を思い出させる事態になった。1319年10月、ハイメ2世と王子は、王子が結婚するという証書を公証人の前で交わした。10月18日に婚礼の式が行われたが、王子ハイメは式の中で和平の接吻をすることを拒み、ハイメ2世が代わりにこれを行ったと当時の年代記は伝える。式が終わると、王子は王位継承権を放棄して修道院に入りたいという願いを父に再び訴え、父と口論の末に馬で逃げ出して、妻を置き去りにした。1319年12月、タラゴナで長子の権利とアラゴンの王位への権利を放棄し、エルサレムの聖ヨハネ修道会の修道服を着た。
王子ハイメの退位後は弟のアルフォンソが後継者と宣言された。1320年の春、レオノールはトルトサに滞在していたが、ハイメが妻と王位への権利を取り戻そうと企てていることが、ハイメ2世らの知るところとなった。この陰謀は王によって未然に防がれた。レオノールはその後サラゴサ、カラタユー、アテカに住み、そこへ迎えに来たカスティーリャの貴族たちによってカスティーリャへ連れ戻された。ブルゴスのラス・ウエルガス修道院に身を寄せたが、修道女にはならなかった。1329年2月5日、タラソナのサン・ミゲル教会で、王子ハイメの弟でアラゴン王のアルフォンソ4世の後妻となった。婚礼には弟のアルフォンソ11世、亡き王子ペドロの妻マリア・デ・アラゴン、ハイメ2世の子である王子フアン、ペドロ、ラモン・ベレンゲーが出席した。二人の間にはフェルナンドが1329年に、フアンが1330年に生まれた。
夫アルフォンソ4世の死後、前妻テレサ・デ・エンテンサの子であるペドロ4世が王位に就き、レオノールは息子たちを連れてカスティーリャへ帰国した。アラゴンの王妃であったのは1329年から1336年までとされる。レオノールはしばしば国政に口を出し、甥のペドロ1世と対立した。1358年6月12日、次男のフアンがペドロ1世によって殺された。その1年後の1359年、レオノール自身もカストロヘリスの城で、ペドロ1世の命令によって暗殺された。さらに4年後、長男のフェルナンドは異母兄のペドロ4世に処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- グレゴリオス・パラマス (1359年没)
- イヴァン2世 (1359年没)
- Vitale da Bologna (1359年)
- ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・モリナ (1359年没)
- ジャンヌ・ド・ベルヴィル (1359年)
同じ地域に関係する人物
- エレノア・オブ・イングランド (1214年没)
- サンチョ3世 (ナバラ王) (1035年没)
- フェリックス・ロドリゲス・デ・ラ・フエンテ (1980年没)
- フェリペ1世 (カスティーリャ王) (1506年没)
- フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス (1517年没)