伝記
イザベラ・オブ・フランスは、1295年頃に生まれ、1358年8月22日に没した、フランス王フィリップ4世の王女で、イングランド王エドワード2世の王妃である。その美貌は「ヨーロッパ随一」と謳われ、各国の宮廷で「佳人イザベラ」と称された。一方で、後年の所業から「フランスの雌狼」とも呼ばれて恐れられた。
母はナバラ女王ジャンヌ・ド・ナヴァールで、第4子として生まれた。長兄はルイ10世、次兄はフィリップ5世、三兄はシャルル4世である。叔母マーガレットはイングランド王エドワード1世の二番目の王妃であった。4歳のとき王太子エドワードと婚約し、1308年1月28日、ブローニュ=シュル=メールで結婚した。三組の国王夫妻が列席し、祝典と行事は2週間に及んだという。ところが新婚早々、夫の寵臣であるコーンウォール伯ピアーズ・ギャヴィストンと対立した。王は寵臣とともに彼女に嫌がらせを行ったため、彼女は反ギャヴィストン派の旗印となった。ギャヴィストンは二度追放されながら帰国を許されたが、最後には反対派の諸侯に誘拐されて殺害された。
その後、王が重用したヒュー・ル・ディスペンサー父子が王を後ろ盾に勢力を広げ、諸侯の反感は強まった。イザベラも自分がないがしろにされていると感じ、ディスペンサーの追放を求める人々に好意を示した。彼女は年に1万ポンド以上の収入を持ち、独自の家政組織を有していた。しかし1324年9月、ガスコーニュで戦争が起きると、フランス人の王妃の所領がフランス軍の橋頭堡にされる恐れがあるとして、所領を没収された。これで家政組織の存続が危うくなり、彼女は王とディスペンサー父子に真っ向から敵対する立場に立った。
1325年、兄のフランス王に王の代わりとして臣従の礼をとるため、王太子エドワードとともに渡仏した。フランスでは、亡命していた諸侯とともに王権の転覆策を練り、亡命者の一人ロジャー・モーティマーと愛人関係になった。王に帰国を拒む手紙を書き、エノー伯の娘フィリッパを王太子妃とすることを認める代わりに、遠征の援助を得た。1326年9月24日、約700人の軍勢がサフォークに上陸すると、各地で歓迎されて約1か月で国内を制圧した。ディスペンサー父子ら宮廷派の主要人物は処刑され、王は捕らえられた。翌1327年1月には王の廃位が議決され、15歳の王太子がエドワード3世として即位した。王を救出する企てが二度あったため、その生存を危険視した彼女の示唆で、王は獄中で秘密裏に殺害されたともされる。
実権はイザベラとモーティマーが握った。スコットランドとの講和は国内の強い反発を招き、モーティマーの急速な昇進も諸侯の反発を呼んだ。1330年春にはケント伯が反逆罪で処刑されたが、18歳の王はこの独断に憤慨し、同年10月、ノッティンガムでモーティマーを逮捕した。モーティマーは処刑され、彼女は政治から引退した。その後は3000ポンドの年金を得て裕福に暮らし、1337年には4000ポンドに増額された。アーサー王の伝説と宝石に関心を持ち続け、晩年は占星術や幾何学にも関心を寄せた。1358年8月22日に没し、遺言でモーティマーの眠る地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- アラー・ウッディーン・バフマン・シャー (1358年)
- イザベル・ブルース (1358年)
- 足利尊氏 (1358年没)
- ギョーム・カルル (1358年)
- ジャン・ビュリダン (1358年没)
同じ地域に関係する人物
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- モード (ノルウェー王妃) (1938年没)
- ジョージ6世 (イギリス王) (1952年没)
- リチャード・シング (1994年没)
- アンナ・シュウエル (1878年没)