伝記
足利尊氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代前期にかけての武将で、室町幕府の初代征夷大将軍である。嘉元3年(1305年)7月27日、足利氏の当主足利貞氏の次男として生まれた。母は側室の上杉清子で、生誕地は確かでない。正室の子である兄の高義がいたため、家督を継がない次男として育ったが、13歳のとき兄が21歳で亡くなり、貞氏の後継者となった。元応元年(1319年)10月10日、15歳で従五位下に叙されて治部大輔に任じられ、同じ日に元服して、得宗北条高時の偏諱を受け、高氏と名乗った。正室には赤橋守時の妹の登子を迎えた。1331年に父が亡くなり、26歳で足利家の当主となった。
同年、後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、鎌倉幕府は高氏に出兵を命じ、高氏は笠置と、楠木正成のこもる下赤坂城の攻撃に加わった。父の喪中を理由に出兵を辞退したが許されず、『太平記』はこのことから高氏が幕府に反感を抱いたとする。翌1332年3月に後醍醐天皇が隠岐へ流されると、幕府は高氏の働きに従五位上の位階で報いた。正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山にこもると、高氏は病中ながら再び幕命を受け、名越高家とともに大将として上洛した。妻の登子と嫡男の千寿王を連れて行こうとしたが、幕府は二人を人質として鎌倉に残させた。途中の三河国で腹心に謀反の志を打ち明けて同意を得、のちに後醍醐天皇から討幕の密勅を受けた。名越高家が緒戦で戦死すると、4月29日に丹波国の篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、赤松円心らを集めて入京し、5月7日に六波羅探題を滅ぼした。関東では新田義貞が挙兵して鎌倉に攻め入り、幕府は滅んだ。
建武の新政が始まると、高氏は勲功第一とされ、鎮守府将軍となって30か所の所領を与えられた。同年8月、後醍醐天皇の諱の尊治から一字を受けて尊氏と改名した。建武2年(1335年)、北条高時の遺児の時行を擁した北条氏の残党が信濃で乱を起こし(中先代の乱)、鎌倉を一時占拠した。尊氏は征夷大将軍を望んだが許されず、8月2日に天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉へ向かい、相模川の戦いで時行を破って、8月19日には鎌倉を回復した。乱を鎮めたあとも鎌倉にとどまり、自ら征夷大将軍を名乗って配下に恩賞を与えたため、天皇との関係が悪化した。11月、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏の討伐を命じ、尊氏は赦免を求めて寺にこもり髪を切ったが、足利方が劣勢になると、直義が死ねば自分が生きても無益だと言って出陣した。12月に箱根・竹ノ下で新田軍を破り、京都へ進んだ。建武3年(1336年)正月に入京したものの、北畠顕家、楠木正成、新田義貞の攻勢を受けて敗れ、2月11日の豊島河原の戦いで大敗して、一時は九州に落ちた。
その後、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を得た尊氏は、太宰府天満宮を拠点に再び上洛して京都を制圧した。北朝の光明天皇の即位を支え、光明天皇から征夷大将軍に任じられて、新たな武家政権である室町幕府を開いた。一度は尊氏に降った後醍醐天皇は、すぐに吉野へ脱出して南朝を立てた。尊氏は基本方針の『建武式目』を発布し、征夷大将軍として幕府の軍事を取り仕切った。後醍醐天皇の崩御後は、その菩提を弔うために天龍寺を建て、全国の戦没者を弔うために66の安国寺利生塔を設けさせた。やがて、高師直の派と弟の直義の派とのあいだで観応の擾乱が起こり、二人の死により終息した。その後も尊氏は、南朝や、直義の養子で実は自分の実子である足利直冬らの打倒に奔走し、晩年には政治にも手腕を発揮して統治の安定に努めた。1358年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト2世 (オーストリア公) (1358年没)
- ジャン・ビュリダン (1358年没)
- イザベル・ブルース (1358年)
- ギョーム・カルル (1358年)
- アブー・イナーン・ファーリス (1358年没)