伝記
マーガレット・マナーリン・ミッチェルは、1900年11月8日、アメリカ・ジョージア州アトランタに生まれた小説家である。父ユージン・ミューズ・ミッチェルは弁護士で、アトランタ弁護士会会長やアトランタ歴史協会会長を務め、アトランタの市史とジョージア州史の権威として知られた。母メーベルとの間には兄が2人あり、うち1人は夭折したため、彼女は末の妹として育った。幼い頃は南北戦争を生き抜いた母方の親類の影響を強く受け、一族から戦争にまつわる話を聞かされたが、南部連邦支持者が全てを失ったという事実の全貌を知ったのは10歳のときだったという。
1918年6月にワシントン神学校を卒業した彼女は、陸軍中尉クリフォード・ウェスト・ヘンリーと恋に落ち、フランスへ出発する前に婚約指輪を贈られた。ヘンリーは同年フランスでの戦闘で致命傷を負い、10月17日に亡くなった。のちに彼が『風と共に去りぬ』のアシュレのモデルだとも言われる。医学を志してマサチューセッツ州のスミス大学に入学したが、翌1919年1月に母がインフルエンザで死去し、学業を断念してアトランタへ戻った。この出来事は、作中でスカーレットの母が腸チフスで亡くなり、彼女がタラへ帰る場面に反映された。その後は『アトランタ・ジャーナル』に入社して日曜版のコラムを書き、1922年に結婚したが、相手が禁酒法下の酒の密売人だったため2年後の1924年に離婚した。翌1925年7月4日、前夫の友人ジョン・マーシュと再婚している。
踝を骨折して寝たきりとなった1926年、彼女は『風と共に去りぬ』を書きはじめたと伝えられる。図書館から歴史書を借りてくる夫に「そんなに本が好きなら自分で書いてみたら」と言われたのがきっかけだった。旧式のレミントン・タイプライターを使い、最終章から書き出して章を飛び飛びに進めるなど独特の方法で執筆し、原稿は他人の目に触れないよう戸棚やベッドの下にしまっていた。当初の主人公の名はパンジー・オハラで、タラはフォントノイ・ホールと呼ばれていた。1935年、有望な作家を探してアトランタを訪れたマクミラン社の編集者ハワード・ラザムが、書いたものはないかと尋ねた。友人に「あなたが本を書けるはずがない」と笑われて腹を立てた彼女は、古い原稿を持ってラザムのもとへ駆けつけた。その分量はあまりに多く、ラザムは新たにスーツケースを買い足したという。後に彼女は原稿を返すよう電報を打ったが、ラザムは大ベストセラーになると確信しており、出版が決まった。小説は1936年に完成し、6月30日に刊行されるとたちまち成功をおさめ、同年のクリスマスには100万部を突破した。ピュリッツァー賞を受賞し、1939年にはデヴィッド・O・セルズニックによって映画化されている。
1949年8月11日、夫とアトランタの劇場へ向かう途中、ピーチツリー街を横断中に飲酒運転の車にはねられ、5日後の16日に48歳で亡くなった。運転手は有罪となったが、目撃者の証言をめぐって今も議論がある。生涯に発表した作品は『風と共に去りぬ』のみで、未発表の原稿は遺志により親族らが破棄したと言われる。墓所はアトランタのオークランド墓地にある。
同じ年に亡くなった人物
- フェリックス・デレーユ (1949年没)
- 山内積良 (1949年没)
- レオン・フラピエ (1949年没)
- クラウス・マン (1949年没)
- アリス・ベイリー (1949年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・トゥームズ (1885年没)
- ハーマン・E・タルマージ (2002年没)
- アリシア・レット (2014年没)
- David Finkelstein (2016年没)
- ウィリアム・クロウフォード (政治家) (1834年没)