伝記
クラウス・マンは、1906年11月18日にミュンヘンで生まれ、1949年5月21日に没したドイツの作家である。父は作家トーマス・マン、母はユダヤ系の家に育ったカタリーナ・プリングスハイムで、第二子にして長男だった。伯父は作家ハインリヒ・マンで、姉エーリカや弟ゴーロもいた。反ナチスの作家としても知られる。
家族の間では「アイシ」と呼ばれた。有名な作家である父や伯父と同じ名前を持っていたため、生涯にわたって比較に苦しみ、長いあいだ「トーマス・マンの息子」としか見られなかった。父は家族から「魔術師」と呼ばれ、その関係はしばしば距離と冷たさを帯びていたとされる。母との間は温かく、とりわけ姉のエーリカとは終生もっとも近く、二人は「双子」のようだと言われた。幼いころ、クラウスとエーリカは友人とともに子ども向けの小さな劇団をつくり、数年のあいだに八つの芝居を上演した。このころの彼は俳優を志し、学校のノートに詩や戯曲を書きつけていたという。家には作家や出版人が出入りし、隣人の指揮者ブルーノ・ヴァルターは子どもたちにクラシック音楽やオペラを教えた。12歳のころから一日に一冊を読み、15歳の時分にはプラトンやニーチェ、ノヴァーリス、ホイットマンを好んでいた。ミュンヘンのギムナジウムでは退屈して成績が振るわず、田舎の施設に送られた後、パウル・ゲヘープが開いた進歩的な寄宿学校オーデンヴァルト校に入った。しかし同級生の少年に恋をして学校を去り、1924年の初めにアビトゥーアの直前で学業をやめた。
作家としては1924年から活動を始め、短編小説を書いたのち、ベルリンの新聞で批評家として活躍した。1925年に初めて作品が出版された。初期にはシュテファン・ゲオルゲに触発された耽美的な傾向を見せ、同性愛を扱った『敬虔な踊り』は、ドイツ語で書かれた初の同性愛小説とされる。同性愛のために偏見の的となり、また父との関係もうまくいかなかったため、1933年、ナチスの政権掌握を受けてオランダのアムステルダムへ移った。戦線が広がるにつれて、パリ、プラハ、チューリヒへと逃れた。母方がユダヤ系だったため、ナチスによってドイツの市民権を奪われ、のちに父母とともにチェコスロバキアの市民権を得た。この時期の作品に、『小説チャイコフスキー』(1935年)と、『メフィスト』(1936年)がある。
アメリカに渡ったのは1938年とも1940年ともされ、ニュージャージーに居を構えた。すぐに亡命者のための新しい雑誌「決断」の編集に取りかかり、自由な文化の雑誌と銘打って、オーデンやハクスリー、イシャーウッド、アンダーソン、コクトー、ハインリヒ・マン、ヴェルフェル、ツヴァイクらの寄稿を得た。父は賛同者だったが寄稿はしなかった。経営が続かず、雑誌は1942年に発行を止め、同年、自伝的な『転回点』を刊行した。1943年にアメリカの市民権を得て、第5軍の二等軍曹としてイタリアに出征した。戦後の欧州に居場所を見いだせず、薬物や抑うつに苦しんだとされ、1949年、医師ロベルト・クロプシュトックから得た睡眠薬を過剰に服用して亡くなった。存命中には作品が顧みられなかったが、没後かなりたってから再評価され、今日ではドイツ語圏の二十世紀文学、とくに亡命文学の重要な作家とされる。
同じ年に亡くなった人物
- チャールズ・ポンジ (1949年没)
- エルマー・クリフトン (1949年没)
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- ジャヌアリア・マリア・デ・ブラガンサ (1901年没)
- レオネット・カッピエロ (1942年没)
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