伝記
ヴィクター・フレミングは、1889年2月23日にアメリカ合衆国のカリフォルニア州で生まれ、1949年1月6日に没した映画監督である。『オズの魔法使』と『風と共に去りぬ』という、ともに1939年公開の二つの名作を手がけたことで知られ、その作風から「男性映画の監督」と呼ばれた。
生まれたのは、現在のラ・カニャーダ・フリントリッジに近いバンバリー牧場で、両親はエヴァ(旧姓ハートマン)とウィリアム・リチャード・ロンゾ・フレミングであった。父はパサデナで初めて水道設備を設置した技師だったが、ヴィクターが4歳のときに亡くなった。母が再婚してロサンゼルスに移り住んだのち、牧場を経営する伯父の家に引き取られたという。学生時代は腕白で、14歳で学校をやめ、パサデナの自転車店で働いた。やがて自動車に関心を持ち、カーレーサーやメカニックとして働くようになる。その途中、映画監督アラン・ドワンの愛車を修理したことがきっかけで親しくなり、1910年に撮影助手兼カー・スタントマンとして映画界に入った。翌年には助監督となり、1915年ごろから撮影監督として、ドワンやD・W・グリフィスの作品に参加した。
第一次世界大戦中はアメリカ陸軍の写真部門に勤め、ヴェルサイユではウッドロー・ウィルソン大統領の主任カメラマンを務めたとされる。1918年からはコロンビア大学の軍事映画学校で教え、その責任者となって、700人を超える兵士に映画の編集、撮影、現像などを教えた。1919年、『暗雲晴れて』で初めて監督を務めた。無声映画の時代には、ダグラス・フェアバンクスが主演する冒険映画や西部劇を多く手がけた。たくましい気性と屋外スポーツ好きから「男性映画の監督」と呼ばれる一方、女優の演出にも優れていた。1922年にパラマウントと契約し、クララ・ボウ主演の『フラ』や、エミール・ヤニングスのハリウッド初出演作で、第1回アカデミー賞の主演男優賞をもたらした『肉体の道』を撮った。その後1930年にフォックスへ移り、1932年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーへ入った。
MGMでは同社の重要な作品を任された。ジーン・ハーロウ主演の『紅塵』『爆弾の頬紅』のほか、『宝島』や、スペンサー・トレイシーが主演男優賞を得た『我は海の子』、『テスト・パイロット』を監督し、ジャンルを問わず手腕を示した。クラーク・ゲイブルとは『紅塵』『ホワイト・シスター』『テスト・パイロット』『風と共に去りぬ』『冒険』の5本で組んでいる。1939年の『風と共に去りぬ』では作品賞や監督賞などを受賞し、ヴィヴィアン・リーが主演女優賞、ハティ・マクダニエルが助演女優賞を得た。ただし、この作品はジョージ・キューカーら複数の監督が部分ごとに演出している。撮影監督アーチー・ストートは、共に働いた監督のなかで、カメラの角度やレンズの選び方に最も通じていたのがフレミングだと評したという。ヴァン・ジョンソンは、見事な監督だが一緒に働くには「厳しい人」だったと回想している。
1940年代に入ると、『ジキル博士とハイド氏』(1941年)のような例外はあるものの、経歴は下り坂をたどった。1948年のイングリッド・バーグマン主演『ジャンヌ・ダーク』は興行的に失敗したとされるが、アカデミー賞に7部門でノミネートされ、2部門を受賞した。この作品を撮り終えて間もない1949年1月6日、心臓発作を起こし、アリゾナ州コットンウッドの病院へ向かう途中で亡くなった。ベルエアの広い邸宅は馬の牧場で、ゲイブルやバーグマンらがよく客として訪れていた。
同じ年に亡くなった人物
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