伝記
呉鎮は、元末の文人画家である。至元17年7月16日(1280年8月12日)に生まれ、至正14年(1354年)に没した。字は仲圭、号は梅花道人(梅道人)、あるいは梅花和尚という。嘉興府嘉興県魏塘、現在の浙江省嘉興市嘉善県の出身で、黄公望・倪瓚・王蒙と並ぶ元末四大家の一人に数えられる。元の山水画の様式を確立した人物とされる。
漢詩や書にも通じ、道教を実践する一方で儒学にも深く通じた学者でもあった。しかし終生仕官せず、易による占いや絵を売ること、村塾を開くことなどで暮らしをたて、清貧と孤高の隠遁生活を楽しんだ。晩年に近づくにつれて絵を売るようになったともいう。そうした清貧は、日和見の結果というよりも、本人の気質によるものだったようだ。名高い逸話によれば、隣に住む画家の盛懋の絵を買う人々が大勢いたのに対し、呉鎮は貧しいままで、妻はそれを強く嘆いた。呉鎮は妻に、20年のうちには立場が入れ替わるから信じていなさいと答えたという。ただしこの逸話は、おそらく後世の作り話であろうとも言われる。人づきあいを好まない孤独な人で、酒を入れたひょうたんと数輪の梅の花を相手にすることを好んだといわれる。元末四大家のうち他の3人は互いに交流があったが、呉鎮とはなかったようである。住まいは「春波の草庵」と名づけられた。
画法は、巨然の点描法を学び、墨竹は文同に学んだ。樹木や岩の様式化には、董源と巨然の影響が感じられる。多くの点を重ねて形をやわらげ、土の肌のような質感を与え、静かでやさしい作風で竹や山水を描き、自作の詩を添えることも多かった。舞台としたのは、自分が暮らした江南の、湿潤で平らな土地に小さな丘がうねり、多くの水路が走る風景である。作品には、1328年の「双松」、1335年の曲がった松の絵などがある。1342年に描いた『漁父図』は、小舟に乗る漁父という簡素な主題の変奏を連ねたもので、眠ったり、景色を愛でたり、鼻歌を歌ったりしながら趣味に興じる、気ままな漁父たちが描かれている。1347年には岩のそばの竹を描いた。竹は小さな枝を簡素な筆致で描くことが多く、茎のしなやかさや葉先の鋭さが、筆と墨の技巧を尽くして表されている。墨の扱いのたしかさは書家としての才に由来し、草書は唐代の懐素に学んだものとされる。
生前はあまり知られていなかった呉鎮を、元末四大家の一人に押し上げたのは、明代の文人たちであった。明代には、その詩や思索、芸術についての言葉を集めた『梅花道人遺墨』が刊行された。池大雅をはじめ、日本の文人にも影響を与えている。
同じ年に亡くなった人物
- ドラゴシュ (1354年)
- バルドゥイン・フォン・ルクセンブルク (1354年没)
- ユースフ1世 (ナスル朝) (1354年没)
- ヘレネ・アサニーナ (1354年)
- 北畠親房 (1354年没)