伝記
アブー・アルハサン・アリーは、マリーン朝の第11代君主(スルターン)である。1297年に、スルターンのアブー・サイード・ウトマーン2世とエチオピア出身の母のあいだに生まれた。黒い肌の持ち主で、「モロッコの黒いスルターン」と呼ばれた。父の存命中はフェスの留守を固め、即位前にフェスに神学校のアッタラーン・メデルサを建てた。1331年に父が亡くなると跡を継ぎ、イフリーキーヤを治めるハフス朝のスルターン、アブー・バクルの娘と結婚した。この婚姻は父が生前に取り決めたもので、両王朝の関係を深める意図があった。
1333年6月、グラナダのナスル朝のスルターン、ムハンマド4世の求めに応じ、5000人の軍をイベリア半島のアルヘシラスへ派遣した。2か月の包囲のすえ、1309年からカスティーリャ王国に奪われていたジブラルタルを回復した。この成功はナスル朝の宮廷にマリーン朝の影響力が増す恐怖を煽り、数か月後にムハンマド4世は貴族に暗殺された。跡を継いだユースフ1世は、それでもマリーン朝との同盟を保った。1334年には、義父アブー・バクルの要請でイフリーキーヤに侵入したザイヤーン朝のアブー・タシュフィーン1世と交戦し、1335年初頭にはザイヤーン朝の首都トレムセンに進攻して包囲した。1337年5月、2年にわたる包囲のすえにトレムセンを陥落させた。タシュフィーン1世と彼の兄弟は捕らえられて斬殺され、アルジェリア西部はマリーン朝に併合された。
1339年、ユースフ1世からカスティーリャ撃退の援軍を求められた。1340年4月5日、ジブラルタル近海の海戦でマリーン朝の艦隊がカスティーリャの艦隊に勝利し、提督テノーリオは戦死した。8月14日、アブー・アルハサンは自ら大軍を率いてイベリア半島に上陸し、翌月ユースフ1世の軍と合流してタリファを包囲した。しかしポルトガル艦隊が包囲を解き、補給線が絶たれた。1340年10月、サラード川でカスティーリャとポルトガルの連合軍と戦って敗れ、アルヘシラスへ退いた。この敗戦ののち、アブー・アルハサンはイベリア半島では防備に専念することを決め、マリーン朝の軍事活動の中心は北アフリカに移った。アルヘシラスは1344年3月にアルフォンソ11世に奪還された。
1346年に義父アブー・バクルがチュニスで没すると、ハフス朝では後継者争いが起こった。1347年初頭、亡命した侍従イブン・ティーファラージーンの進言を容れたアブー・アルハサンは、息子のアブー・イナーン・ファーリスにトレムセンを中心とするマグリブ中部の支配を委ね、東へ進んだ。同年9月15日にチュニスに入城し、モロッコからチュニジアにおよぶ北アフリカ一帯を支配して、かつてマグリブを治めたムワッヒド朝に匹敵する大国となった。しかし1348年4月、カイラワーン近郊でアラブ遊牧民と、その支援を受けたハフス朝のスルターンに敗れ、チュニスやトレムセンでの権威は失われた。1349年12月13日にチュニスを去ったが、海路で帰ろうとした船団は嵐に遭って沈み、多くの将兵と法学者が溺死した。そのころフェスでは、アブー・アルハサンがカイラワーンで戦死したという偽りの報を信じた息子のアブー・イナーンがスルターンを称していた。父は1350年5月の戦いで息子の軍に敗れ、アトラス山脈のヒンタータ族のもとへ逃れ、息子への譲位を認めた。1351年5月24日、潜伏していたアトラス山中で病没した。遺体はアブー・イナーンのもとへ運ばれ、大規模な国葬が営まれて、シェラのマリーン王家の墓城に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・ビン・トゥグルク (1351年没)
- Margareta Ebner (1351年)
- ヨハンナ・フォン・プフィルト (1351年没)
- 聖コンラド(ピアチェンツァ)修道者 (1351年)
- レオノール・デ・グスマン (1351年没)
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