HISTORICAL PERSON · 1350年没

アルフォンソ11世 (カスティーリャ王)

復讐王とも呼ばれるカスティーリャ王。生後13か月で即位し、14歳で親政を始めて後見人を排除し王権を強めた。サラードの戦いでマリーン朝に勝ち、1344年にアルヘシラスを降伏させ、『七部法典』を公布した。

生涯
1350年没
死亡地
スペイン王国(カディス県 / ラ・リネア・デ・ラ・コンセプション)
出生地
スペイン王国(サラマンカ)
出典
世界地図
スペイン王国(カディス県)

伝記

アルフォンソ11世は、1311年8月13日に生まれたカスティーリャ王国の国王である。父は国王フェルナンド4世、母は王妃コンスタンサで、2人の唯一の男子だった。復讐王、スペイン語でエル・フスティシエロとも呼ばれる。幼少期に貴族たちが民を虐げる姿を知り、祖母の影響も受けて、正義と法の遵守に熱心な君主になったため、この呼び名を得たとされる。

1312年、生後13か月で即位したが、あまりに幼いため、母コンスタンサ、祖母マリア・デ・モリナ、叔父ペドロ、大叔父フアン、そしてフアンの従弟にあたるビリェーナ公フアン・マヌエルの5人が後見人として政治を担った。5人はばらばらに行動してまとまりに欠けた。1313年に母が急死し、グラナダのナスル朝に介入していたペドロとフアンは、1319年にグラナダの反撃に遭って敗死した。1321年には祖母も亡くなり、後見人はフアン・マヌエルだけになった。新たにペドロの弟、フアンの同名の息子である隻眼のフアンが加わったが、3人はカスティーリャを分割して対立し、内乱で領土は荒廃し、農民は外国へ逃れ、人口が減る悪循環に陥った。

1325年、14歳のアルフォンソ11世は親政を始め、フアン・マヌエルの娘コンスタンサ・マヌエルと結婚した。コンスタンサはもとは隻眼のフアンの婚約者だったが、王家の働きかけに応じたフアン・マヌエルが婚約を破棄していた。両者を分断した王は、翌1326年に隻眼のフアンを暗殺した。1327年にはコンスタンサと離婚し、摂政だったフアン・マヌエルを追放した。1328年にはポルトガル王アフォンソ4世の娘マリアと結婚し、1329年には姉レオノールとアラゴン王アルフォンソ4世の結婚でアラゴンと和睦した。後ろ盾を失ったフアン・マヌエルとも和解し、1331年に戴冠式を挙げた。王位を請求していたラ・セルダ家も主張を撤回し、アルフォンソ11世は後見人を排して王権を強めることに成功した。

国内を安定させた王は、レコンキスタに熱心に取り組んだ。1331年にナスル朝を臣従させたが、アフリカのマリーン朝がたびたびナスル朝と結んでスペインを脅かしたため、諸国の援助を得てマリーン朝を倒す計画を立てた。1340年8月、マリーン朝のスルタンであるアブー・アルハサン・アリーがアルヘシラスに上陸し、ナスル朝のユースフ1世とともにタリファを包囲した。王は舅のアフォンソ4世が率いるポルトガル軍を加えた軍勢でタリファの救援に向かい、10月30日、サラードの戦いで敵と交戦した。敵はキリスト教軍の3倍以上だったが勝利をおさめ、以後マリーン朝の介入はなくなった。勢いに乗った王は、1341年にアルカラ・ラ・レアルとプリエゴを落とし、1342年8月からアルヘシラスを包囲して、1344年3月に降伏させた。1348年には曽祖父アルフォンソ10世が編纂した『七部法典』を公布し、都市の上級役職を占める下級貴族や有力商人の世襲と特権を認めて都市を間接的に支配するなど、王権強化の改革を実現した。

1350年、王はジブラルタルの攻略中に黒死病にかかり、陣中で亡くなった。嫡男のペドロ1世が跡を継いだ。王は生前から王妃マリアを顧みず、愛妾レオノール・デ・グスマンを離さなかった。レオノールとの間には10人の子が生まれ、その息子の1人エンリケは、のちにエンリケ2世となった。愛妾へのこうした偏愛が、のちのカスティーリャの内乱を招くことになった。

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