伝記
プンペウ・ファブラは、1868年2月20日にバルセロナ郊外のグラシアで生まれたカタルーニャ人の文法学者・言語学者である。正書法、文法書、辞書を整え、現代カタルーニャ語の規範化にもっとも大きな功績を残した人物とされる。両親には十三人とも十六人ともいわれる子があったが、小児の死亡率が高い時代で、成人したのは三人だけだった。1876年に一家はバルセロナ市街に移り、そこで初等教育を受けた。幼いころから言語への感覚が鋭く、兵隊人形で遊ぶときは制服ごとに言葉を使い分け、港へ出かけては外国人の水夫の話す言葉に耳を傾けたという。
当時のバルセロナでは、口語はカタルーニャ語、文語はスペイン語を使うのが普通だった。十五歳まではカタルーニャ語で読み書きをしたことがなかったが、甥に手紙を書く際にスペイン語の書き言葉に疑問を抱き、カタルーニャ語の本や新聞を読むようになった。十五歳で工科学校へ進んで技術者の道を歩みつつ、文法や言語学も独学で学び、口語と文語の差の大きさに驚いて、十七歳で約百ページの文法書の試論を書き上げた。1889年に学業を終えると鉱山への就職を辞退し、バルセロナに残って補習や受験のための教室で学生を教えた。文化クラブのアタネウでは、言文一致をめざす考えに多くの会員が賛同し、雑誌『ラベンス』を通じて新しい正書法や文法の普及がはかられた。自らもイプセンやメーテルリンクの作品をカタルーニャ語に訳している。1891年には口語を初めて記述した文法書『現代カタルーニャ語文法試論』を著した。
1902年にはビルバオの工科学校で化学の教師となったが、この時期も文法書を書き続けた。1906年の第1回カタルーニャ語国際会議では画期的な提言を行って評価を得た。1907年に設立されたカタルーニャ研究院には、1910年に言語部門が開かれ、規範辞書を編むことで合意が成立した。1911年にはバルセロナ大学にカタルーニャ語講座が設けられ、教授に就いた。1912年にバルセロナへ戻って研究院の教授となり、同年に総合的な『カタルーニャ語文法』を著した。1911年の原案をもとに議論された正書法は1917年に研究院から刊行された。言語部門の初代委員長アルクベーとは考えが大きく異なり、対立したが、両者は1926年に和解した。1923年のプリモ・デ・リベラのクーデター後に講座の職を退かされ、独裁下でも辞書編纂を続けて、1932年に『一般カタルーニャ語辞典』を刊行した。この辞典は20世紀の主要な文筆家たちが学んだとされ、現在も「ファブラの辞典」と呼ばれる。1934年にはバルセロナ詩歌競技会の会長となった。
1934年10月6日にカタルーニャ自治政府が共和国軍に制圧されると、投獄された。スペイン内戦が始まると反乱軍に敵視されたが、バルセロナに残って講義を続け、1939年1月に大規模な攻撃を受けて家族とフランスへ亡命した。モンペリエに約二年暮らし、フランス語の文法書を1941年にパリで出し、のちにプラードへ移った。1948年12月25日、プラードで死去した。フランコ体制下のスペインでは訃報が報じられなかったという。『カタルーニャ語文法』は今日も版を重ねる規範文法書であり、墓には毎年数千人が訪れる。1990年に開校したバルセロナのプンペウ・ファブラ大学にも名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- Princess Sophia Kaur of Lahore (1948年没)
- ユースタス・マイルズ (1948年没)
- アーダルベルト・フォン・プロイセン (1884-1948) (1948年没)
- チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ (1948年没)
- ニコラ・ジェコフ (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- フィリップ3世 (フランス王) (1285年没)
- コンスタンス1世 (350年没)
- ピエール・クロステルマン (2006年没)
- ジョン・チカイ (2012年没)
- アルフォンソ2世 (アラゴン王) (1196年没)