伝記
ムハンマド・アリー・ジンナーは、イギリス領インド帝国のムスリム(イスラム教徒)の有力指導者で、インド・パキスタン分離独立に関わり、パキスタンの初代総督となった人物である。パキスタンでは「カーイデ・アーザム(最も偉大な指導者)」「建国の父」とも呼ばれる。グジャラート系ホージャー派ムスリムの子として、シンド州カラチに生まれた。最も古い学校の記録では誕生日は1875年10月20日とされるが、のちに本人が1876年12月25日と公言したため、パキスタンでは後者が国民の祝日になっている。7人兄弟の長男で、父は生まれる前にカーティヤーワール半島からカラチへ移住したグジャラート商人だった。一家はシーア派のホージャー派に属したが、のちに本人は十二イマーム派へ改宗したという。
ボンベイ大学の試験に16歳で合格し、1892年にロンドンへ渡った。渡英の直前に母のすすめで2歳年下の遠縁の娘と結婚したが、妻は2年後に若くして亡くなり、滞在中に母も亡くなった。会社勤めを辞め、1896年にリンカーンズ・イン法律協会に入って弁護士資格を取得した。19歳のインド人弁護士は当時最年少の記録だった。やがて父の家業が傾いたこともありボンベイに戻って事務所を開き、成功を収めてマラバール・ヒルに邸宅を構えた。1905年には国民会議派の指導者ティラクが関わった騒擾事件の裁判で弁護人に雇われ、インド人が自国での自由と自治を求めるのは当然だと法廷で主張したが、ティラクは投獄された。
政治では、1896年にインド国民会議派に参加した。当時の参加者と同じく、早急な独立は望んでいなかった。第一次世界大戦中は、自治権の承認を見返りに期待して、イギリスの戦争を支持した。全インド・ムスリム連盟への加入は当初ためらっていたが、1913年に加入し、1916年にはラクナウの年次集会で連盟代表に選ばれた。同年に国民会議派と連盟の合同会議でラクナウ協定が採択され、ジンナーはその策定に参加した。私生活では1918年に、24歳年下でボンベイのゾロアスター教徒の名家出身のラタンバーイーと再婚した。双方の共同体から激しい反対を受け、彼女はイスラームに改宗して親族と絶縁することになった。1919年に娘ディーナーが生まれたが、結婚生活は1927年に破局し、離婚した妻は1929年に重病で亡くなった。
1915年に帰国したガンディーの大衆的な運動に対し、ジンナーは合法的な抵抗を重んじる立場から批判的で、1920年に国民会議派を脱会した。1928年に国民会議派のネルーが「ネルー報告」をまとめると、ムスリムの分離選挙や議席の確保が否定されていたため、ムスリム側は受け入れられなかった。翌1929年にジンナーは14か条を発表して妥協を図ったが、国民会議派などの反対を受けた。1931年の円卓会議に幻滅して一時は政治の表舞台を離れ、イギリスで再び法律の世界で働くことを決めたが、イクバールらの期待に応えて1934年に帰国し、連盟の再編に奔走した。1937年の総選挙では惨敗したものの、国民会議派への疑念がムスリムの間に広がるなかで、「パキスタン」構想が現実味を帯びて浮上した。ジンナーは従来の考えを改め、ムスリムとヒンドゥーは別個の民族だとする二民族論を唱え、1940年のラホール大会でラホール決議が採択された。この構想は、のちにパキスタンが分離独立する際の基礎理念となった。ジンナーはパキスタンの初代総督となったのち、1948年9月11日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- 周仏海 (1948年没)
- アキーレ・ヴァルツィ (1948年没)
- ウンベルト・ジョルダーノ (1948年没)
- アブドゥル=カーディル・アル=フサイニー (1948年没)
- チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・ビン・トゥグルク (1351年没)
- メフディ・ハッサン (2012年没)
- Khursheed Bano (2001年没)
- アブドゥル・サッタル・イーディ (2016年没)
- アンワル・アーメド・カーン (2014年没)