HISTORICAL PERSON · 1869年没

ガーリブ

ムガル帝国末期のウルドゥー語詩人。ペルシア語でも優れた詩や書簡を残し、1857年の大反乱の状況を著作に記録した。

生涯
1869年没
死亡地
インド(デリー / Ghalib ki Haveli)
出生地
インド(Kala Mahal)
出典
世界地図
インド(デリー)

伝記

ガーリブは、1797年12月27日にアーグラで生まれた、ムガル帝国末期の詩人である。本名はミールザー・アサドゥッラー・ベーグ・ハーンといい、「ガーリブ」は「優れているさま」を意味する筆名で、初期にはライオンを意味する「アサド」も用いた。ウルドゥー語とペルシア語で優れた詩歌と書簡、散文を残し、ウルドゥー語詩人の巨匠としてミールらと並び称される。家系は中央アジア出身で、祖父はサマルカンドから傭兵として身を立てようとヒンドゥスターン平原に移り、パンジャーブの領主やムガル朝のシャー・アーラム2世らに仕えた。そのためガーリブは、自分を「トゥーラーン」の裔と考えていた。父は彼が四歳のときに戦死し、父の弟ナースルッラー・ベグが一家を引き取ったが、この叔父も1806年に戦象から落ちて亡くなった。

ガーリブは、アーグラの富裕な母方の祖父母の家で育った。回想の書簡では毎日友人とチェスをし、屋根の上で凧揚げをしたというが、研究者のヴェルマは、この回想には誇張が含まれ、実際には父と叔父を亡くしたストレスや剥奪感がつきまとっていたと述べる。ペルシア語での詩作は、叔父の死の直後の1806年か1808年ごろに始め、非常に早熟であった。アーグラの優れた教師のもとで、論理学、天文学、医学、形而上学などの伝統的学問を身につけた。文学への傾斜は、イランから来て祖父母の家に逗留した学者アブドゥッサマドとの出会いに始まる。ゾロアスター教徒からイスラームに改宗した人物で、1811年から2年間ガーリブと寝起きを共にし、アラビア語やペルシア語、哲学を教えた。ガーリブは誰かを師匠と呼ぶことはなかったが、この人物が最も師匠に近かったと推測されている。

1810年8月、十三歳でウマラーゥ・ベーグムと結婚し、1813年ごろにデリーへ移って、チャーンドニー・チョウク付近に居を定めた。そこが終生の住まいで、現在は記念館になっている。1816年には最初の詩集を「アサド」の筆名でウルドゥー語で出版し、以後は筆名を「ガーリブ」に改め、カスィーダ、ガザル、マスナヴィーなどの形式で詩を作り続けた。妻との間に七人の子が生まれたがいずれも夭折し、妻の甥の詩人アーリフを可愛がって、1852年に彼が亡くなるとその息子二人を養った。父や叔父の年金をめぐる訴訟のため、1828年にはカルカッタへ赴いて二年間留まっている。貴族的な生い立ちに由来する放蕩の癖があり、経済的な欠乏がついて回った。1837年には酒の付けがたまって訴えられて短期間牢に入り、1841年と1847年には賭博で逮捕された。

詩人としての名声は高く、1840年にはペルシア語教授の職を打診されるほどだった。ムガル朝の皇帝バハードゥル・シャー2世の催す詩会にも出席し、1850年7月に公式に宮廷の禄を食むようになって、年六百ルピーの年金と称号を与えられた。好敵手のゾウクが1854年に亡くなると、皇帝からその桂冠詩人の地位を与えられている。1857年の大反乱で皇帝がビルマへ追放され、ガーリブは皇帝に近かったという理由で年金を止められた。弟ユースフも同年に熱病で亡くなった。年金は1859年に再開され、ラームプル藩王国から受け取れるようになり、晩年の十年は活発な詩作や言論活動を行った。1866年ごろから衰え、1869年2月15日にデリーで亡くなり、ニザームッディーン廟の一族の墓所に葬られた。ペルシア語の作品もウルドゥー語作品より多く、本人はペルシア語詩人であることを誇りにしていた。

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