HISTORICAL PERSON · 1348年没

ジョヴァンニ・ヴィッラーニ

フィレンツェの銀行家・政治家。『新年代記』を著し都市の歴史を綴ったが、1348年の黒死病で没した。

生涯
1348年没
死亡地
イタリア共和国(フィレンツェ県 / フィレンツェ)
出生地
イタリア共和国(フィレンツェ)
出典
世界地図
イタリア共和国(フィレンツェ県)

伝記

ジョヴァンニ・ヴィッラーニは、フィレンツェの銀行家・政治家・歴史家で、『新年代記』の著者である。生年は1276年とも1280年ともいわれ、確かではない。没年は1348年である。有力な商人の家に生まれ、父のヴィッラーノは、1300年にはダンテ・アリギエーリとともに市の行政委員を務めた。

1300年は、ジョヴァンニが商人として歩み始めた年だった。この年にペルッツィ銀行に入り、1308年まで出資者の1人として籍を置いた。同じ年には、教皇ボニファティウス8世が初めて聖年と定め、各地から約20万人ともいわれる巡礼者がローマを訪れた。ジョヴァンニもローマへ行き、古代の遺跡や文献に触れたという。そこで、古代ローマ以来の歴史家の伝統が途絶えたことを嘆き、「ローマの娘」を自負するフィレンツェの市民として自分がそれを復活させなければならないと感じたとされ、フィレンツェを中心とする年代記を書く決意をしたと伝えられる。ただ、実際には商人・銀行家としての仕事に追われ、執筆の時間はほとんどなかったと考えられている。

ペルッツィ銀行の社員として、イタリア各地やスイス、フランス、フランドルを旅して回り、1306年5月15日には、ブルッヘの名が出てくる初期の為替契約の一方の当事者になっている。1307年にフィレンツェに戻って結婚し、市の政治に携わる生活に入った。1316年と1317年に行政委員となり、1316年から造幣所の長も務めて、フィレンツェで鋳造された貨幣の記録をまとめた。1321年に再び行政委員に選ばれ、ほかにも各種の委員を歴任して、多くの行財政文書を読む機会を得た。ペルッツィ銀行が代表者の死去で清算されると、縁戚が経営するブオナッコルシ銀行に移り、1320年代なかばには共同経営者となった。1328年にトスカーナで飢饉が広がると、1329年から1330年には食糧供給の担当官として、シチリアからの穀物の輸入やパンの安価な販売に関わった。1329年には、ボローニャの枢機卿のもとへ外交使節として派遣され、1330年から1331年にかけては、洗礼堂のアンドレア・ピサーノの青銅扉の制作を監督した。

1331年、市の城壁の建築委員を務めていたとき、突然、公金横領の疑いで告発された。まもなく無実と判明したが、この挫折ののち、年代記の執筆が本格化したと考えられている。1340年代に入ると、フィレンツェは深刻な恐慌に陥り、主要な銀行や商社が次々に破産した。1342年にブオナッコルシ銀行も破綻し、ジョヴァンニは債権者との交渉に奔走したが、ペルッツィ銀行やバルディ銀行などの連鎖倒産もあって混乱は収まらず、1346年2月には債権者の要求で一時投獄された。1348年にフィレンツェを襲った黒死病で、ジョヴァンニも命を落とした。年代記の執筆は、弟のマッテオ(1363年没)と、その子フィリッポが引き継いだ。

『新年代記』は全12巻で、前半6巻はバベルの塔から皇帝フリードリヒ2世までを扱い、先人の著作に頼る部分が多い。ジョヴァンニはラテン語をほとんど知らなかったとされるが、聖書や古典の知識は豊富だった。後半6巻は、1266年のシャルル・ダンジューによるシチリア王位の継承から始まり、1346年で終わる。銀行家・政治家として活躍した1310年代を描く第8巻以降の記述は詳しく、第11巻にある1338年ごろのフィレンツェの風景と経済状況の描写は、ヤーコプ・ブルクハルトにも注目された。

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