HISTORICAL PERSON · 1346年没

ルイ1世 (フランドル伯)

フランドル伯。親フランス政策から都市の反乱を招き一時亡命したが、復帰翌年のクレシーの戦いで戦死した。

生涯
1346年没
死亡地
フランス共和国(ソンム県 / クレシーの戦い)
出生地
フランス共和国(ヌヴェール)
出典
世界地図
フランス共和国(ソンム県)

伝記

ルイ1世は、1304年頃に、フランドル伯ロベール3世の長男であるヌヴェール伯ルイ1世と、ルテル伯ユーグ4世の娘ジャンヌの間の唯一の息子として生まれた。ヌヴェール伯ルイ・ド・ヌヴェールの名でも知られる。1320年には、祖父ロベール3世の意向により、フランス王フィリップ5世の次女マルグリットと結婚した。この縁組は名誉あるものであったが、ロベール3世がフランドル南部の主権の移譲と重い負担を受け入れる機会にもなったという。

1322年7月22日に父が、9月17日には祖父が相次いで亡くなり、ルイはヌヴェールとフランドルを継いだ。フランス王の承認を待たず、叔父ロベール・ド・カッセルに先んじようとフランドルに急いで伯と宣言させたため、王の怒りを買って一時身柄を拘束されたが、のちにパリ高等法院が正式に伯と認めた。ルイはルーヴルで育ち、それまでフランドルに住んだことがなく、しばらくはヌヴェール地方で暮らすことを好んだため、フランドルの人々にとって終生よそ者であった。彼は何より、騎士道の理想から王に忠実なフランス人の君侯であった。一方、毛織物工業で栄えた都市は、イングランドから羊毛を輸入する関係で親イングランドであり、伯との関係は緊張した。港町レクルーズを大叔父ジャン・ド・ナミュールに譲ったことでブルッヘの人々が反発して蜂起し、1323年には競合する港を略奪した。1328年に母が死去すると、ルテルも相続して3つの領地がそろった。

その後の、ニコラース・ザネキンに率いられた蜂起ではコルトレイクとブルッヘが立ち上がり、伯はブルッヘの人々に捕らえられ、随行者らはコルトレイクの火災の際に処刑された。ヘントの人々は伯を支持してブルッヘに釈放を迫った。ブルッヘが再び蜂起すると、ルイはフランス王に助けを求め、王は反乱都市を打ち破った。ルイは激しい弾圧ののち権力をいっそう強め、都市に与える自由を狭めたが、ブルッヘの人々はこれを「悪い特権」と呼んだ。1335年には、ルイは王の意向に従って、フランドルの船にイングランド船と戦わせ、ヘントの人々の不満を招いた。

1336年にイングランドが経済制裁としてフランドルへの羊毛輸出を止めると、フランドルは不況に陥った。1337年に百年戦争が始まるとルイはフランスに与したが、ヘントの商人ヤコブ・ヴァン・アルテベルデがヘント、ブルッヘ、イーペルの3都市と結んで蜂起した。1338年にイングランド王エドワード3世がフランドルに上陸し、ルイは1338年の夏から翌年にかけてフランスへ逃れた。事実上フランドルを握ったアルテベルデは、1339年に羊毛輸出の再開と引き換えにイングランドと同盟を結び、エドワード3世は1340年にヘントでフランス王を名乗った。

1345年にアルテベルデが内部の争いで暗殺されると、ルイはフランドルへの復帰を図り、テルモンドに入ったが、ヘントの人々に追われた。エドワード3世の宗主権を認めることも拒み、フランス王の遠征に従った。そして1346年8月26日、クレシーの戦いで多くのフランス騎士とともに戦死した。遺体はサン=リキエ修道院に葬られた。跡を継いだ息子のルイ2世は、都市の反乱を収拾し、イングランドに近づきながら勢力の拡大を図った。

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