HISTORICAL PERSON · 1947年没

ピエール・ボナール

ナビ派に分類されるフランスの画家。日本美術の影響を強く受け「ナビ・ジャポナール」と呼ばれた。室内情景など身近な題材を好み、裸婦や版画、ポスターも残した。

生涯
1947年没
死亡地
フランス共和国(アルプ=マリティーム県 / ル・カネ)
出生地
フランス共和国(フォントネー=オー=ローズ)
出典
世界地図
フランス共和国(アルプ=マリティーム県)

伝記

ピエール・ボナールは1867年、フランスのフォントネー=オー=ローズに陸軍省高官の息子として生まれた。父はドーフィネ地方の出身で、母はアルザスに生まれた。兄弟にシャルルがおり、妹アンドレは1890年に作曲家クロード・テラスと結婚した。学校時代から素描や水彩、風刺画に才能を示し、文学にも関心を持った。法律を学び、1888年にはその資格を得たが、弁護士の登録試験には通らなかった。そのかたわらパリのアカデミー・ジュリアンで絵を学び、ポール・セリュジエやモーリス・ドニと知り合った。その後、官立美術学校に入り、エドゥアール・ヴュイヤールとも出会った。1889年から翌年にかけて兵役に就いた後、セリュジエを中心とする画家の集まりに加わった。この集団は後にナビ派と呼ばれる。「ナビ」は預言者を意味する語である。

ボナールは法律の道を離れ、絵画だけでなく版画やポスターも制作した。初期の作品にはポール・ゴーギャンらの影響があり、ナビ派の仲間と展覧会にも参加した。最初の商業作品としてシャンパンのポスターを制作し、画家として生計を立てられると家族を説得する助けになったとされる。1891年にはアンデパンダン展に作品を出し、同年、雑誌の表紙絵をヴュイヤールと手がけた。1890年に美術学校で日本美術展を見たことから、日本絵画への関心を深めた。1893年には浮世絵師の作品を集めた展覧会が開かれ、複数の視点や幾何学模様を使う日本版画の特徴が作品に現れた。ナビ派の仲間からは、日本美術への傾倒を示す呼び名を付けられた。画面は1900年頃から茶色を基調とする落ち着いた色調から、暖色を中心とした鮮やかな色彩へ変化した。人物、食卓、窓辺、庭などを描き、印象派や日本版画とも異なる色の扱いを展開した。

1893年または1894年に、後に妻となるマリア・ブールサン、通称マルトと出会った。マルトは1893年以降、作品に登場する女性像の多くのモデルとなり、特に浴室や入浴の場面に描かれた。二人は1925年に結婚し、マルトは1942年に亡くなった。ボナールは身近な室内の情景や庭、静物を好み、画面の端で人物や家具を切り取る構図を用いて日常の光景を独自に描いた。平面的で装飾的な構成には日本絵画やセザンヌの影響も見られる。1907年の浴室の裸婦、1921年の開いた窓、1932年のル・カネの食堂など、人物、室内、風景を描いた作品を残した。

マルトの転地療養もあり、ボナールは1912年にパリ西郊のヴェルノンに家を構え、1925年には南仏のル・カネへ移った。両地で庭の風景、室内、静物などを描き続けた。ヴェルノン時代にはテラスや周辺の風景、ル・カネでは食堂や庭を題材にした作品を残し、晩年には浴槽の裸婦と子犬も描いた。一部の作品では縦長の画面を使い、掛軸を思わせる構成を取った。人物やテーブルを画面の端で断ち切る構図には、浮世絵版画の影響が見られるとされる。彼はポスト印象派から近代美術への移行の時期に活動した画家とされ、ナビ派の創設メンバーの一人として、色彩と装飾性を強く打ち出した絵画を制作した。1947年1月23日、ル・カネで死去した。

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