伝記
アントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンは1872年、ロシア帝国領ポーランドのヴウォツワヴェク近郊に生まれた。父イワンはサラトフ州の農奴の家に生まれ、軍に入り、長い勤務の末に少佐まで昇進した職業軍人だった。母エリザベスはポーランド系の小地主の娘で、一家の暮らしは父の年金に頼る質素なものだった。信仰深い父に連れられて教会に通い、礼拝では祭壇で奉仕し、聖歌隊でも歌った。幼いデニーキンはロシア語とポーランド語を話し、数学を得意とした。父の死後は生活がさらに苦しくなり、13歳で家庭教師を始めて家計を助けた。数学の力も認められて学生手当を受け、学業を続けながら軍人を志すようになった。
1890年に実科学校を終えて志願兵となり、軍事学校を経て砲兵旅団に配属された。サンクトペテルブルクの参謀本部アカデミーでは、兵法史の試験に一度失敗して退学となったが、三か月後に再入学し、1899年に卒業した。卒業時には地方出身の彼が参謀本部への配属名簿から外される不公正に直面した。デニーキンは皇帝に訴えたものの認められず、軍務を続けた。1904年には日露戦争に従軍し、満州で参謀や部隊指揮を担った。奉天会戦にも参加し、騎兵襲撃で功績を挙げ、翌年には大佐に昇進した。
第一次世界大戦ではロシア帝国軍の将軍として各地の戦線で指揮を執った。1914年に旅団長となり、敵の弱点を突く攻勢で村を占領した。1915年には第4狙撃旅団を率い、退却を前に師団へ思いがけず攻撃を命じ、ルーツクを占領、将校158人と兵士約九千八百人を捕虜にした。1916年に中将となり、ブルシーロフ攻勢では敵陣を突破してルーツクを奪還した。左腕に負傷しても指揮を続け、同年には軍団長を務めた。
1917年の二月革命後、デニーキンは臨時政府の軍首脳部に加わり、当初はアレクセーエフ最高司令官の参謀総長就任を辞退したが、4月に受け入れた。5月、ブルシーロフが司令官になるとその参謀長を断り、西部戦線と南西戦線の司令官を歴任した。軍隊の民主化を進めるケレンスキーの政策を批判し、兵士評議会の廃止と軍の政治化の排除を唱えた。コルニーロフ将軍の反乱計画を支持したため逮捕され、他の将兵とともに移送中、暴徒化した兵士の襲撃を受けた。革命と内戦の混乱が深まるなか、彼は反ボリシェヴィキの白色運動に加わり、南ロシアの軍事政権を率いる指導者となった。
1919年から1920年まで南ロシア政府の軍総司令官を務め、白軍の主要な指揮官の一人として、コルチャークやセミョーノフらと並び立った。白色運動の指導者のなかで大きな軍事的・政治的成果を上げ、各地で活動する白軍組織の形成にも関わった。コルチャークが全ロシア臨時政府の最高執政官を辞任した後、その後継者に指名されたが、就任は拒否した。
内戦後は、戦争の記録と自伝的著作を執筆した。内戦を綴った回顧録は1921年から1926年にかけて刊行され、『旧軍』も1929年から1931年に発表された。自伝小説『ロシア将校の道』は死後の1953年に出版された。軍人として革命と内戦に深く関わった経験を、回想や文学の形で残したデニーキンは、1947年8月8日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- マックス・パーキンズ (1947年没)
- ベニグノ・アキノ・シニア (1947年没)
- ウィリアム・モールトン・マーストン (1947年没)
- ウィレム・ペイペル (1947年没)
- テューレ・ラングストレム (1947年没)
同じ地域に関係する人物
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- アリス・ハーズ (1965年没)
- エドセル・フォード (1943年没)
- Paul Mitchell (2021年没)
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