伝記
マルタ・ア・ダンマークは、1277年ごろに生まれ、1341年3月2日に没したスウェーデン王ビルイェルの妃である。デンマーク王エーリク5世とアグネス・フォン・ブランデンブルクの娘で、後のエーリク6世の妹にあたる。もとの名はマルグレーテ・エリクスダッタといったが、スウェーデンではマルタと呼ばれ、歴史上もこの名で知られる。1282年にデンマークとスウェーデンの平和な関係が復活すると、マルタとスウェーデンの王位継承者ビルイェルとの結婚が取り決められ、親族同士の結婚に要る教皇の特免状は1284年に得られた。『エリクの年代記』によると、マルタは婚約の後にデンマークを離れ、結婚式までスウェーデンの宮廷で育った。
二人の結婚式は1298年11月25日にストックホルムで行われた。騎士の行列や貴族による演劇があり、王が弟たちに公位を与えるという、手の込んだ祝典だったといわれる。マルタは、1288年に花嫁の誘拐に関与して捕らえられた貴族マグヌス・アルゴットソンの解放のほかに寡婦財産を求めず、賞賛された。それでも1300年にはフィエドゥルンダランドとエンシェーピングからなる寡婦財産を個人の領地として与えられ、1302年12月2日にセーデルシェーピングで王妃として戴冠した。二人は一緒に育てられ、幸せな結婚だったといわれる。マルタは国政にも大きな影響力を持ち、政治に積極的に関わったとみられている。1304年には義姉インゲボリとともに、ビルイェルと兄エーリク6世の会談に出席し、その場で長男マグヌスが王位継承者と宣言された。
1306年9月29日、祝祭に招かれたマルタとビルイェルは、王弟のエリクとヴァルデマールに捕らえられ、ニュヒェーピング城に幽閉された。これが「ホトゥナレーケン」と呼ばれる出来事で、弟たちが権力を握った。長男マグヌスはデンマークへ逃れたが、他の息子2人と娘1人は両親とともに投獄された。翌年、デンマーク王エーリク6世と王弟たちの条約で寡婦財産が保証され、1308年にマルタ夫妻は釈放された。
1317年の「ニュヒェーピングの晩餐」では、王と王妃が報復のため王弟たちを祝祭に招いて捕らえ、二人は地下牢で死んだ。マルタはこの陰謀を計画した人物とされ、『エリクの年代記』は、国王の側近ヨハン・ブルンコフとともに逮捕を行ったと記す。リューベックの年代記は、兄であるデンマーク王の支援を受けてビルイェルに働きかけたと伝える。翌1318年、王弟たちの未亡人の軍が王の軍を破ったため、夫妻はゴットランド島へ、さらに子供たちとともにデンマークのシェラン島へ亡命した。スウェーデンではエリクの息子マグヌス4世が王と宣言された。同年9月4日、エーリク6世はマルタの収入源としてユトランド半島のヤルップの荘園を与えた。
翌1319年に兄エーリク6世が没し、次兄クリストファ2世が王位を継いだ。クリストファ2世はかつて王弟たちの側についたことがあり、マルタとの関係は良好ではなかったと伝えられるが、夫妻にシェラン島のシュペガーボルグの荘園を与えた。次男は1319年に亡命先で死去し、1320年にスウェーデンへ戻った長男マグヌスは処刑された。夫ビルイェルは1321年に没した。マルタは1326年、ドイツへ追放されたクリストファ2世に同行を余儀なくされて3年間帰国できず、1329年に財産の返還を保証された。晩年にはシェラン島のネストヴェズにある聖ペテロ修道院へ引退した。1341年に死去し、リングステズの聖ベント教会に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- Dietrich von Altenburg (1341年)
- エイレーネー・パレオロギナ (1341年)
- ゲディミナス (1341年没)
- アンドロニコス3世パレオロゴス (1341年没)
- Leo IV (1341年没)
同じ地域に関係する人物
- クレステン・ダルスゴー (1907年没)
- マルガレータ・アヴ・スヴェーリエ (1977年没)
- アブサロン (1201年没)
- フレゼリク2世 (デンマーク王) (1588年没)
- Carl Krebs (1971年没)