HISTORICAL PERSON · 1201年没

アブサロン

デンマークの大司教としてヴェンド人討伐の遠征を指揮してリューゲン島を服属させ、後のコペンハーゲンとなる要塞の建設許可を得るなど国政に貢献した。

生涯
1201年没
死亡地
デンマーク(シェラン地域 / ソレ)
出生地
デンマーク(Fjenneslev)
出典
世界地図
デンマーク(シェラン地域)

伝記

アブサロンは、デンマークの大司教で政治家である。1128年ごろ、シェラン島のソーレー近くに生まれた。シェラン島の有力なヴィーゼ家の当主アサ・リーと、イーネル・エーリクスダッタの息子で、兄のエスビョルンとともに、幼い王子ヴァルデマー、のちのヴァルデマー1世と一緒に育った。生家で、座学だけでなくあらゆる武術の訓練を受けたのち、パリの神学校に留学した。エーリク3世の死後の内乱のころである。1157年、王位を争ったスヴェン3世が、ライバルのクヌーズ5世とヴァルデマーを、ロスキレの宴に招いたとき、アブサロンも客として居合わせた。アブサロンとヴァルデマーは、スヴェンの暗殺の手をかろうじて逃れてユトランド半島へ逃げ、スヴェンはこれを追ったが、グラーテ・ヘーゼの戦いで敗れて殺された。1158年、ヴァルデマー1世が王位につくと、同じ年にアブサロンをロスキレ司教に任じた。

アブサロンはヴァルデマー1世の第一の顧問となり、ヴァルデマー1世、クヌーズ6世、ヴァルデマー2世の3代にわたる、デンマークのバルト海支配の方針を考え出した人物であった。当時、ヴェンド人の海賊が、デンマークの海岸を荒らし、ヴァルデマーが王位についたころには、国の3分の1が荒れ果てていた。アブサロンは、艦隊をつくり、海岸の防備を固め、何度も遠征を指揮した。1160年にはヴェンド遠征を始め、1168年にリューゲン島のアルコナにある、神スヴェントヴィトの聖域をもつ砦が降伏するまで続いた。アルコナの人々は、降伏と同時にキリスト教への改宗も受け入れた。彼はオーフスの司教スヴェンと12人の親衛兵だけを連れ、屈強な戦士6,000人が並んだ二重の列のあいだを通り抜けて、7つの頭を持つ神リュギエヴィトの神殿へ行き、偶像を切り倒して燃やした。ガルツの全ての民が洗礼を受け、リューゲン島には12の教会が築かれた。

軍事攻勢の目的は、デンマークを神聖ローマ帝国の影響から脱させることにあった。しかし1162年、ヴァルデマー1世は、アブサロンの助言と警告に逆らって、フランスのドールでフリードリヒ1世に忠誠を誓った。1167年には、デンマーク人として初めてルンドで教会会議を開いた。1176年には、王から、シェラン島東岸のエーアソン海峡に面した要衝に要塞を築く許可を得た。これが後のコペンハーゲンとなった。1178年に、嫌々ながらルンドの大司教になった。パリウムを受けるよう説得してくる教皇庁の破門だけが脅威だったが、ついにこれを受け入れた。1182年にクヌーズ6世が即位し、神聖ローマ帝国の大使がロスキレを訪れたときには、新王への忠誠の誓いを求める大使に、決然として耐えた。最後の軍功は、1184年の聖霊降臨祭の日に、デンマークの属国を襲ったリューゲン侯ヤロミール1世のポメラニアの海軍を、ストレラ(シュトラールズント)で殲滅したことであった。軍を引退して、ヴァルデマー公(のちのヴァルデマー2世)のような若者に海軍の指揮を任せたが、自らが築いた権力の座は退かなかった。

アブサロンは、教会や修道院を建て、シトー会や聖アウグスチノ修道会のような外国の聖職者の地位も保証し、学校も設立した。サクソ・グラマティクスがデンマーク史を著すのを助けた。1201年3月21日、一族の墓所として建て、自らも多額の寄贈をしたシトー会のソーレー修道院で没した。大司教などの地位は、甥のアンデシュ・スーネセンとペーザ・スーネセンが継いだ。

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