伝記
ハインリヒ14世は、1305年9月29日にランツフートで生まれた下バイエルン公である。ハインリヒ2世とも呼ばれた。父は下バイエルン公シュテファン1世、母はシュレージエンのユタ(シュヴァイトニッツ公の娘)で、弟にオットー4世がいる。1310年12月21日に父が亡くなると、名目上は弟のオットー4世、叔父のオットー3世とともに下バイエルンの統治を継いだ。1312年9月に叔父が亡くなってからは、叔父の子で同年4月に生まれた従弟のハインリヒ15世を加えた三人で統治することになった。幼い三人の後見をめぐっては、上バイエルン公のルドルフとルートヴィヒ(のちの皇帝ルートヴィヒ4世)、さらにオーストリア公たちを巻き込んだ争いが起こり、ルドルフがランツフートなど下バイエルンの城市を占領した。1313年の夏、ルートヴィヒはハインリヒ14世を連れてウィーンへ行き、ルドルフを訴えさせた。のちにルドルフとルートヴィヒは和解して、共同で下バイエルンを治めた。
ハインリヒ14世は1322年1月に自ら統治を始めた。同じ月、三人の公は貴族と都市の同意を得て、領内で家畜税を集める権限を得た。聖職者にも課そうとしたが高位聖職者の大半が反対し、ザルツブルク大司教が公たちを破門して領地に禁令を出したため、公たちは翌年に聖職者への課税をあきらめた。1322年のミュールドルフの戦いでは、前夜に騎士に叙せられ、同族のルートヴィヒの勝利に加わった。1323年12月13日にはオーストリアとの和平条約が結ばれた。1324年10月には公たちが武器を向け合う寸前になったが、仲裁によって収まった。1328年8月12日にはボヘミア王ヨハンの娘マルガレーテと結婚し、1329年に長男のヨハンが生まれ、1330年には次男のハインリヒが生まれたが、この子は生まれた年のうちに死んだ。1330年には、ハインリヒ15世とともにハルス伯と戦って七つの城を壊した。
1331年8月7日、皇帝とボヘミア王ヨハンの仲介で、下バイエルンは三人の間で分けられた。ハインリヒ14世はランツフート、シュトラウビング、シェルディング、プファルキルヒェンを得てランツフートに住み、ハインリヒ15世はデッゲンドルフなど、オットー4世は南東部のブルクハウゼンを得た。それでも争いは絶えず、ハインリヒ14世は、団結した他の二人と対立した。1333年、皇帝が一時退位を考えると、ハインリヒ14世はドイツ王位の候補となった。1334年に弟のオットー4世が亡くなった。領地の分割をめぐる弟や従兄との争いが、皇帝との関係を悪化させ、ハインリヒ14世は岳父のボヘミア王ヨハンと同盟を結んだ。それでも1337年の冬には、大勢の従者を連れてヨハンとともに、プロイセンでのドイツ騎士団の十字軍に加わった。
1339年2月に皇帝ルートヴィヒ4世と和解したが、その数か月後、1339年9月1日にランツフートで世を去った。ハンセン病で亡くなったとされる。弟のオットー4世と従弟のハインリヒ15世に先立たれていたこともあり、下バイエルンは統合され、跡は息子のヨハン1世が継いだ。ヨハン1世は1340年12月20日に11歳で亡くなっている。ハインリヒ14世には、母が不明のエーバーハルトという庶子がいたことも、系図に見える。
同じ年に亡くなった人物
- フランチェスコ・ダンドロ (1339年)
- アッツォーネ・ヴィスコンティ (1339年)
- 後醍醐天皇 (1339年没)
- 忠粛王 (1339年没)
- アレクサンドル・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公) (1339年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨゼフ・フォン・フラウンホーファー (1826年没)
- Gottlieb August Wilhelm Herrich-Schaffer (1874年没)
- Julius Dopfner (1976年没)
- エレン・シュヴィールス (2019年没)
- コンラート (ロートリンゲン公) (955年没)