伝記
ヨゼフ・フォン・フラウンホーファーは、1787年3月6日にバイエルンのシュトラウビングで生まれ、1826年6月7日にミュンヘンで没したドイツの光学機器製作者であり、物理学者である。太陽光のスペクトルに見られるフラウンホーファー線や、光学分野のフラウンホーファー回折に名を残す。ドイツの応用研究機関フラウンホーファー協会も、彼の名に由来する。墓碑には、「彼は星を近づけた」という意味のラテン語の銘がある。
ローマ・カトリックの家に、ガラス鏡職人フランツ・クサーファー・フラウンホーファーの11番目の子として生まれた。父も祖父も、シュトラウビングのガラス職人であった。1797年に母、翌1798年に父を失って孤児となり、ミュンヘンの鏡製造業者ワイヒゼルベルガーの徒弟となった。親方は厳しい人物だったという。1801年7月21日、老朽化していた作業場が崩壊し、彼は瓦礫の下に埋まったが、幸運にも無傷で救い出された。救出の指揮をとったバイエルン選帝侯マクシミリアン・ヨーゼフは、金貨18ドゥカーテンを与えて励まし、本や勉強の時間を与えるよう親方に命じて支援した。その場に居合わせた顧問官ヨゼフ・フォン・ウッツシュナイダーも彼を見出して引き取り、日曜学校に通わせた。
独学と、ウッツシュナイダーの教育、天文学者シークの感化で、かなりの知識を身につけ、1806年に数学機械研究所に入った。ウッツシュナイダーとゲオルク・フォン・ライヘンバッハは、彼をベネディクトボイエルンの修道院にある自分たちの研究所へ連れて行った。そこはガラスの製造に取り組む世俗化された修道院で、フラウンホーファーは高品質の光学ガラスの作り方を学び、光の分散を測る正確な方法を考案した。スイス人のガラス技術者ギナンから製法を教わったが、仲はうまくいかず、ギナンの供給するガラスが希望の屈折率を持たないことが1811年にわかって破局した。ウッツシュナイダーの仲裁で収まり、結局フラウンホーファーが工場のすべてを切り盛りするようになった。1809年にはすでに研究所の経営に参画し、名称も「ウッツシュナイダー・ライヘンバッハ・フラウンホーファー光学研究所」と改められていた。
1811年に新しい炉を築き、約102キログラムのガラスを溶かし、底から取り出しても表面と同じ屈折力をもつ、均質なフリントガラスの大塊を作ることに成功した。1813年ごろにプリズム分光器を製作し、1814年ごろ、ウォラストンとは別に、太陽スペクトルに約700本の暗線を発見した。1817年には、この暗線を基準にしてガラスの屈折率を測る方法をとり、これは光学技術上特記すべき業績とされる。同年、バイエルン科学アカデミーの会員に指名され、ガウスら多くの名士と知り合った。1819年には、ドルパート天文台の屈折望遠鏡のために、有効口径24.4センチメートル、焦点距離432センチメートルの対物レンズを完成させた。この年、ガラスに金メッキを施して1ミリメートルあたり300本の平行線を刻んだ格子を作り、光の回折を研究して、まだ確立していなかった光の波動説を支持した。1822年にエアランゲン大学から名誉博士号を贈られ、1824年には貴族に叙せられ、ミュンヘン名誉市民となった。1825年夏の終わりに肺結核への感染がわかり、1826年に39歳で世を去った。死因は肺結核とも、ガラス製造に伴う重金属中毒ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ファレイ (1826年没)
- ゲオルク・フランツ・ホフマン (1826年没)
- Khalid-i Baghdadi (1826年没)
- コンドラチイ・ルイレーエフ (1826年没)
- マリー=ギエルミーヌ・ブノワ (1826年没)
同じ地域に関係する人物
- ギーゼラ・フォン・エスターライヒ (1932年没)
- エレオノーレ・ユリアーネ・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ (1724年没)
- カール・テオドール・フォン・ダールベルク (1817年没)
- テレーゼ・ギーゼ (1975年没)
- カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー (2007年没)