伝記
ヨアヒム・フォン・リッベントロップは、1893年4月30日、ラインラントのヴェーゼルに、プロイセン歩兵連隊を指揮する陸軍中佐の子として生まれたドイツの実業家、外交官、政治家で、ヒトラー内閣の外務大臣を務めた。母ゾフィーはザクセンの地主の娘であった。当時のドイツでは異例のことに、10代半ばまでドイツとスイスの私立学校で教育を受けた。フランス語と英語に堪能で、1910年から1914年にかけてドイツワインの貿易商としてカナダで働き、事業で成功を収めて、モントリオールやオタワの上流社会の一員となった。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスに身柄を押さえられるのを避けて、ニューヨーク経由でドイツへ急ぎ帰国した。肺結核を患っていた弟のローターはカナダに残り、イギリスに拘束された。
帰国後はドイツ陸軍に入って東部戦線に従軍し、中尉まで昇進して一級鉄十字章を授与された。1918年4月に負傷した後は、コンスタンチノープルのドイツ大使館に勤め、ハンス・フォン・ゼークト将軍やフランツ・フォン・パーペンの知遇を得た。敗戦後はゼークト将軍の副官としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約に身近に接して、その屈辱が大きかったと後に回想している。1920年7月に裕福なシャンパン醸造家の娘アンナ・エリーザベト・ヘンケルと結婚し、5人の子をもうけた。商売のために欧州各地を転々とし、伯母に頼んで養子となったことで、貴族称号の「フォン」を名前に加えた。ヴァイマル共和政の時代には、政治に関心を持った形跡も、反ユダヤ的な偏見を明らかにした形跡もないという。
1930年に初めてヒトラーに会い、貴族であり、外交官の経験もあって、他国の高い地位の人々との伝手が多いことから好印象を持たれた。1932年5月にナチ党に入党し、1933年のヒトラーの首相就任までの、パーペンとヒトラーとの秘密会談を、ベルリンの自宅で設定するなどして支援した。党にとっては新参者であったため、古参の幹部たちには妬まれ、特にゲッベルスは、フォンの称号を持つ彼にコンプレックスを抱き、嫌がらせをした。そのためか、リッベントロップは強固なナチズム信奉者、反ユダヤ主義者になっていった。ヒトラーお気に入りの外交政策アドバイザーとなったが、職業外交官たちが国外の情勢を伝えたのに対し、彼は都合のよいことだけを伝えたという。1934年には「リッベントロップ機関」と呼ばれる影の外務省を創設し、同年に軍縮問題担当全権代表となった。
1935年6月18日に英独海軍協定を成立させ、1936年には日独防共協定の交渉も行った。外務省や陸軍は伝統的に親中華民国政策をとっていたが、彼はカナリスや大島浩と連携して日本との同盟を主張した。1936年8月に駐英大使に任命されたが、英独連携という使命を果たせなかった。ロンドン滞在は失言と失態の連続で、英国外務省との関係は悪化した。1938年2月4日にノイラートの後任として外務大臣に就任し、外交路線はより急進的になった。戦争に慎重だったノイラートと対照的に、1938年から1939年にかけて戦争をはっきりと支持した。1939年8月23日の独ソ不可侵条約の調印では、中心的な役割を演じ、ヒトラーに、ポーランド侵攻を受けてイギリスが参戦することはないと力説した。戦後はニュルンベルク裁判にかけられ、1946年10月16日に絞首刑に処された。
同じ年に亡くなった人物
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- ホルヘ・ウビコ (1946年没)
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- ヴィルヘルム・マルクス (1946年没)
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- Eddi Arent (2013年没)
- ディートリヒ・ボンヘッファー (1945年没)
- マルティン・ゴットフリート・ヴァイス (1946年没)
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