伝記
ヴィルヘルム・カイテルは1882年、ブラウンシュヴァイク公国のヘルムシェローデに生まれた。父は小規模な農場を持つ地主であり、少年時代は家族と離れてゲッティンゲンのギムナジウムに学んだ。父の命令で軍人の道に進み、1901年に第46野戦砲兵連隊へ士官候補生として入隊、翌年に少尉となった。1909年、ハノーファーの地主の娘リーザ・フォンテーンと結婚し、六人の子をもうけた。弟ボーデヴィンも軍人となり、後にカイテルの引き立てで陸軍人事部長を務めた。
第一次世界大戦が始まると、西部戦線に出た砲兵連隊で副官を務めた。榴弾の破片で負傷し、二級・一級鉄十字章と戦傷章を受けた。この戦闘が生涯で唯一の実戦経験だった。退院後の1915年に参謀本部へ移り、事務能力を認められて1917年には参謀本部の首席将校となった。敗戦後は義勇軍に参加し、将校数を制限されたヴァイマル共和国軍に残った。1920年から1922年まで騎兵学校で戦術を教え、1922年から1925年には砲兵中隊長を務めた。参謀本部の設置が禁じられた同軍では、兵務局という名で参謀機能を保っており、カイテルも1925年に配属された。教育部で東部国境守備隊の訓練と軍備を担当した後、1927年から1929年には砲兵大隊長を務めた。1929年には陸軍編成部長となり、ヴェルサイユ条約の制限を回避する手段を探った。武器を国境警備隊に渡したり、外国で航空機や戦車などを生産したりする計画に関わった。
1933年にヒトラー内閣が成立するまで、カイテルはナチ党と関わらず、突撃隊やヒトラーを批判していた。しかし友人のブロンベルクが国防相となり、同年にヒトラーと会った後、次第に心酔するようになった。党には最後まで入らなかったが、1935年に国防軍部長となり、軍から政治的に信用できない者を追放する動きに加わった。1938年、ブロンベルクと陸軍総司令官フリッチュが解任されると、国防軍最高司令部が設けられ、カイテルは総長に任命された。ただし、この職は軍を直接指揮するものではなく、実務を担う事務職であった。彼は軍に国家社会主義の思想を徹底することに努め、1939年には党員でないまま黄金党員章を授与された。
第二次世界大戦では、ポーランド侵攻の作戦指導は主に陸軍総司令部が担い、カイテルの司令部の役割は二次的だった。侵攻後、親衛隊部隊による虐殺の報告が集まり、情報部長カナリスも抗議したが、カイテルは国防軍が虐殺に関与しないためには親衛隊と秘密警察の活動を認めるしかないと答えた。1940年のフランスとの休戦協定ではドイツ軍代表として調印し、同年7月に元帥へ進んだ。ソ連との戦争には反対し、スターリンと協議するよう提案したが、ヒトラーに相手にされなかった。1941年12月には「夜と霧」の布告に副署し、占領軍に反抗した人々を家族に知らせず強制収容所へ移送する仕組みに加わった。この布告により、フランスだけでも七千人を超える人々が行方不明となった。
終戦時、カイテルはドイツ国防軍を代表して降伏文書に調印した。戦後、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪などを問われ、死刑判決を受けた。1946年10月16日に刑死した。
同じ年に亡くなった人物
- ストーヤイ・デメ (1946年没)
- ヤコブ・エレハマー (1946年没)
- 酒井隆 (1946年没)
- ハインリヒ・ゲオルゲ (1946年没)
- イオン・アントネスク (1946年没)
同じ地域に関係する人物
- ピーテル・キャンディット (1628年没)
- ヘレーネ・イン・バイエルン (1890年没)
- ルートヴィヒ・ザイデル (1896年没)
- ゴットフリード・ジョン (2014年没)
- ザビーネ・レプシウス (1942年没)